++  横光利一「蠅」についてのコメント  ++
[HOME]  [第7回研究集会]
この掲示板は、第7回研究集会に呼応してつくられたものです。以下の趣旨に共感される方は、自由にコメントを書き込んでください。書き込まれたコメント類は、当日のディスカッションの参考にさせていただきます。
共通テーマは「教室のなかの横光利一」です。教科書や入試をふくむ教室/教育空間には、みえない諸力が働いているようです。だれもがいちどは通過する「教室」において、横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたかを議論してみたいと思います。
対 象とするのは、横光利一の「蠅」[1923]です。それ以外の作品についてもOKです。「教室」で横光の作品を読んだり教わったりしたことのある人、ある いは教える側にたったことのある人は、そのときなにを感じ考えたかを自由に書き込んでください。たとえば、「面白かった、面白くなかった」でも構いませ ん。理由があれば、なおさら結構です。
横光利一の文学は、現代の私たちになにを伝えるのでしょうか。教育現場のリアルな声をひろく募集しています。
〔注意事項 ※投稿する際の「color」選択について〕
(1)教室で教わったことのある人(学生、生徒さん)は「blue」。
(2)教室で教えたことのある人は「red」。
(3)教室とはかかわりなく読んでいる人は「green」。
(4)テーマから外れるコメントは「gray」。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
■みなさん、有難うございました。
  田口(龍谷大学)  
■第7回研究集会が終わり、すでに2ヵ月が経ちました。この掲示板も本来の役目を終えたようで、いまはひっそりと言葉の墳墓のようにたたずんでいます。

■とはいえ、ここに書き込まれた無数の言葉たちは、これから教室で「蠅」を読む未来の読者にとっても、よき相談相手になるにちがいありません。運営委員会では、このまま保存して、閲覧できるようにしておくべきとの意見で一致しました。

■ご協力くださったみなさん、ほんとうに有難うございました。みなさんの声は、横光利一文学会の共有財産として、たいせつに保存させていただきます。9月2日の研究集会の様子は、近く、ダイジェストとして、『国文学解釈と鑑賞』[至文堂]に掲載される予定です。

■かわって新しい掲示板が始動します。「横光利一と関西文化圏」にかんする掲示板です。これは、来年3月12日に開催される第六回大会をアシストするためのものです。テーマはかわりますが、ひきつづきご参加いただければと願っています。では、再見!


 
[No.92] 2006年11月11日(土) 9:02:15
58.70.105.214 [unknown]


■補足
  アイハラ  
感想4人分載せました。
が、ボクが感想を求めたのは、「横光学会に出た感想」としてしまったため、少し「蠅」のことは触れられ損ねました。すみません。ご容赦ください。
 
[No.91] 2006年09月12日(火) 0:53:40
219.110.187.69 [unknown]
    ■Re: 補足
      田口(龍谷大学)
    ■アイハラさん、そ れから4名のみなさん、ありがとうございました。おかげで、ぼんやり気になっていたことが明確になってきたような気がします。アイハラさんは、一貫して学 習者の「実感」を尊重すべきとのメッセージを発しておられましたね。たぶんUさんあたりも、同じ意見なのだと思います。

    ■これはいうなれ ば、「ボトムアップ的」(A)なのだと思います。できるだけ個々人の実感にそくした読みから出発し、授業や議論のプロセスで、なんらかの合意/共通見解を 形成していくスタイルでしょうか。ここには、軽やかで、ゆるやかなネットワークが意識されているようにみえます。

    ■いっぽう研究集会でみ せてくれた佐藤泉さんのパフォーマンスなどは、「トップダウン的」(B)なのだと思います。ここではなによりも佐藤さんの歴史認識に裏付けられた実感と、 それにそくした読みが主役になります。むろん佐藤さんは、それを「正解」として押しだすつもりは毛頭なかったでしょう。ただたんに自分でもワクワクしなが ら、あるアイデアに没頭している。――そんなふうにぼくには見えました。

    ■両者はほんらい矛盾するものではないと思います。ただ問題が生 じるとすれば、AとBが乖離したり、相殺しあったりする場合ですね。ぼくは会場で司会をしながら、ある戸惑いを感じていました。それは、この「掲示板」に 寄せられたさまざまな声と発表者の発する声とが、どこかでズレていて、なかなか接点をみいだせなかったことです。

    ■この「掲示板」に寄せられた無数の声は、いわば「ボトムアップ的」に集められたものでした。にもかかわらず、そこにはある共通する枠組みのようなものが抽出できたと思います。それはまた、教科書の「指導資料」の類とも、なんらかの和音を奏でていたと思います。

    ■ 発表者たちは、それをべつの不協和音に組みかえようとしていたのかもしれません。しかしそれは、とても貴重なノイズだったと思います。ぼくは個人的には、 これまで「教室」を支配してきた定説/パラダイムを検証し、それに代わるオルタナティブがあれば、それを議論したかったのですが、力量不足でした。「蠅」 の読みをどう最適化していくか。まだ議論をつづけていければと願っています。
     
    2006年09月12日(火) 14:04:37
    58.70.48.139 [unknown]


■感想
  アイハラ代筆  
ヤマモト(学部3年 学会外)

本音を言えば、難しくて何だかよく分からなかったと言うのが正直なところですが、まあなんとか感想らしいものを書いてみます。
全 体的に見ると、『蠅』そのものにはあまり触れていませんでした。「教室のなかの横光利一」というテーマは、教職をとっている人には良かったかも知れません が、私にはあまりピンときませんでした。しかし、その中でも石田仁志さんの発表は、比較的『蠅』に触れていて、参考になりました。
寝ていたわけではないのですが、余りよく覚えていません。


ニシヤマ(学部1年 学会外)

学会自体が初めてで、もっと硬い雰囲気なのだろうと思っていましたが、講演者との距離も近く、リラックスして参加できました。
教材としての『蠅』という視点でしたので、『蠅』を学校で習っていなかった私にはたまに実感しにくいところがありました。
ちゃんと発言などもしたかったのですが、考えているうちに学会が終わってしまっていて、結局何も言えなかったのが残念です。


ナゴウ(学部1年 学会外)

学 会に参加するのは初めてでした。いままで私にとっては文学=読書というところが大きく、分析するものでも他人と話し合うものでもありませんでした。大学で の研究会もそうですが、こういった学会で、様々な人がその場に集まり、様々なことを考えて、レジュメを読んだり発表を聞いたり意見をかわしたりする。そう いった空間に自分がいる、空間を共有しているというのが、何か良いなと感じました。
「蠅」に関しては、ちょうど大学での読書会に向けてだったので、違った読み方を聞けて面白かったです。

 
[No.90] 2006年09月12日(火) 0:51:08
219.110.187.69 [unknown]


■感想
  修士1年 U(学会外)  
石田氏の、崖の上下という空間に「蝿」に象徴されるイメージを読む分析や、戦後教科書史の中に、「蝿」の扱われ方を見、その位置付けを図ろうとする佐藤氏の分析など、興味深く聞きました。

し かし、一方では、「教室の中の「蝿」」 というテーマにも関わらず、各個人が今の自分の視点にたちすぎて、歩み寄りを見せなかったために、教える側教えられる側双方が作り出すはずの「教室の中の 「蝿」」は、教える側の高圧的な解釈を含んだ「蝿」に止まらざるを得なかったような気も、またします。


(アイハラ代筆)
 
[No.89] 2006年09月09日(土) 22:27:24
219.110.187.70 [unknown]


■再開です。
  田口(龍谷大学)  
■研究集会の余韻に ばかり浸っていられなくなりました。じつは研究集会の中身を活字化する計画を進めていまして、結局、『解釈と鑑賞』[至文堂]さんに、20字×23行×3 段組×15頁=20.000字(400字詰め原稿用紙50枚)ほどのスペースを割いてもらえることになりました。(とはいえ掲載時期は、編集部に一任で す。)

■ただ、発表者4名+議論を均等割りすれば、ひとり4.000字(10枚)ほどしかありません。よほど凝縮しなければ、全体の雰囲 気を再現することは難しいでしょう。いちおう〆切は10月末になっています。ディスカッションの部分は、僭越ですが田口が担当させていただきます。ここで の議論もおおいに参考にさせてもらいますので、どうかよろしくお願いします。

■さて掲示板のほうは、さかんに議論がつづいているようですね。それぞれの話題については、場を改めて、すこしずつ交通整理したいと思います。それにしても山アさんが綴ってくださった発表当事者の複雑な胸のうちは傾聴に値しますね。

■ 教室で「蠅」を読むときに発生する「みえない諸力」のなかでも、教授する側の文学観や文学的立場は、けっこう大きな作用を及ぼすかもしれません。田中さん のスタイルと山アさんのスタイルとのあいだには、かなり大きな断層が横たわっているようにみえます。どちらが正しいという問題ではなく、それぞれの「力」 がおよぼす地勢図の細部を吟味してみたいと思います。
 
[No.88] 2006年09月11日(月) 15:43:23
unknown [unknown]
    ■承前
      田口(龍谷大学)
    ■「さかな」さんが おっしゃるように、この掲示板もまったくのフリーハンドというわけにはいかないようですね。そもそも9月2日に会場にいた人と、いなかった人とでは、情報 量がまったく違います。それにいくら匿名とはいえ、文章には書き手のハビトゥスや経験値のようなものがモロにでます。そういう文化資本をおおく持っている 人は、比較的自由に発言できるでしょうが、逆の場合は、かなり敷居がたかく感じられるでしょう。

    ■教室のなかにも、おなじ原理が働いてい ると思います。でも、そうした非対称的な差異を可視化するには、「さかな」さんのような発言を待たなくてはなりません。宮口さんはそれを待っているのだと 思います。だからアイハラさんの後輩たちのいまだ声ならぬ声も、とても貴重だと思います。

    ■田中実さんと電話で話したのですが、わざわざ 大阪から足を運んでくださった「読み研」の加藤郁夫さんをはじめとして、当日会場には、国語教育にたずさわる多くのエキスパートも参加してくださっていた ようです。そうした方たちの目に、当日の議論がどう映ったのかもたいへん興味があります。お忙しいとは思いますが、可能でしたら、議論にご参加ください。
     
    2006年09月09日(土) 12:10:36
    58.70.33.68 [unknown]


■単なる一つの疑問、及び感想
  宮口  
研究集会後の書き込みですが、今のところ固定メンバー間のやりとりになっている、という印象に間違いはないように思われます。
すると、研究会以前に様々発言をして下さった学生・生徒さんの声はもうこの場には戻って来ないと考えるべきなんでしょうね、と取り敢えずは言わなければならないように思う訳です。
今 回のテーマであるところの「教室」において働く力が(皮肉にも?)呼び寄せた、と捉えることも出来るであろう人々の発言が、この掲示板に多々寄せられた事 実があるわけですが、そのような展開を今後はやはり期待してはいけないものだ、と思うのが当然であると受け止めるのが常識的な態度だよ、という思わせる現 実を前にして(さらに言えば研究会に来る人なんてあまりいない、という現実が否定できない事実として目の前で繰り広げられている以上)、今述べている期待 が満たされる可能性に対して誰かが働きかける場面というのは、やっぱり夢物語なんでしょうね。
 
[No.87] 2006年09月07日(木) 0:04:16
220.145.192.67 [unknown]
    ■Re: 単なる一つの疑問、及び感想
      野中
    特定の生徒ばかり発言して残りの生徒が黙っていたり、
    発問のあとに長く沈黙が続いたり、
    国語の教師をやっているとそういうことってよくありますが、
    私の場合は、
    沈黙している生徒も何かを感じたり考えたりしているはずで、
    何らかの活動をしていることになるんだと信じることにしています。
    HOME 
    2006年09月07日(木) 0:58:14
    219.179.250.7 [unknown]
    ■Re: 単なる一つの疑問、及び感想
      宮口
    野中さんが取り上げている場面は、ある意味で実によく分かる状況なのです。
    ただここでの発言は、学生や生徒に(どういう形でかは定かではありませんが)この掲示板に書き込みをさせた方々が、そういった人々のその後、といったものを、この場に出すことは出来ないのかな?という疑問です。
     
    2006年09月07日(木) 1:28:34
    218.217.103.79 [unknown]
    ■ 少し実際的な問題として
      さかな(龍谷大学・3回)
    少々くだけた調子で書きます。失礼だとは存じますが、どうかご了承を。

    外部からの書き込みが少なく、内輪の議論になってしまっている感にご不満のご様子。それでは、ということで、この掲示板に対しての感想でも。

    まず「こういう専門的な場に書き込んでも、発言に責任が持てない」ってのがありますね。専門的にこういう勉強をしてない人間からすれば、自分が基本的で致命的な勘違いをすると、他人に迷惑が掛かるだけで、なんにもならない。
    これがまだ講義の中や授業の中なら救われる。ミスをしてもちょっと恥ずかしい思いをするだけです(といっても思春期の教室じゃあ「ちょっと」ではすまない大きな要素ですが)。あとは教室内という建前がミスを容認してくれるし、そのミスは授業のなり講義なりの一部になる。

    教師や研究者に対しての警戒ってのも、実はあったりします。ここに書き込んでも、結局のところ議論の材料にされるだけで、発言から対話が生まれるわけじゃないんじゃないかと。この状況はかなり教室に似ていると思いますよ。
    どんな形にせよ、課題としてコメント書きがあり、それを集めてデータにする進行役がある。そういうある種の義務(制度的な強制力の有無はおいておくとし て)みたいなもので成り立っている発言が、自発的な参加に結びつくのは難しいでしょう。(田口氏なら教室の中の諸力とでもおっしゃるでしょうか)

     そういう意味では、前半にあれだけ感想が出ただけでも奇跡みたいなもんでしょうね。

    それからアドバイス、なんていうとおこがましすぎて呆れられてしまうかもしれませんが、内輪以外の反応が欲しいなら、どんどん自分から問いかければいいん じゃないかなと。ほれ、下のりんさんなんてきっと面白い反応があるような気もしますし、ぎりぎりまでコメントかいてくれた東洋大の方もいらっしゃいます し、もしかしたらROMも結構いるかもしれません……。

    だいたい、書き込んでくれてる大学生の方ってのは、大学の先生に紹介されてちょっと興味もって覗いてる、って感じなんじゃないかな。でも、そもそも専門的 にやってるわけではないのだから、データも手元にないし、自分から調べるにしてもちと大変。文学や教育に関連する教養を誰もがもっているわけでもないし、 もしかしたら横光なんて作家を知らなかった人だっているんじゃないかな。興味の大きさだって必ずしも大きいわけじゃない。そもそものスタートラインからし て違うのに、積極的な議論の参加を求めるのは酷ってもんでしょう。

    それから、いまさらですが、宮口さんが何を期待しているのかいまいちよく分からない。かなり遠慮して遠まわしに遠まわしにコメントを書いてくださっているようですが。
     
    2006年09月07日(木) 17:02:32
    219.118.93.5 [unknown]
    ■Re: 単なる一つの疑問、及び感想
      宮口
    さかな さん

    ありがとうございます。
    あなたのおっしゃるように、学生の方がこのような場に関わることは、基本的はない、と思います。ただ、自分たちが取り組んでいることに、新たに加わってくださる方の登場への期待を、一言述べたものとして受け止めていただければ幸いです。
     
    2006年09月07日(木) 19:03:58
    218.217.103.79 [unknown]
    ■一言
      アイハラ
    なんで「少々くだけた調子で書きます。」との宣言が必要であったのか、ボクには結局わかりませんが、いずれにしても、さかなさん、宮口さんのやり取りを見ていると、実際なかなか学部生には感想を書くことに抵抗があるようです。

    ボクも、学会で質問することには緊張と抵抗と不安がありますから。笑

    かといって、NHKの「しゃべり場」のようでは困りますし…。難しいバランスですよね。

    当日、ボクの後輩が何人かお邪魔していました。
    あのあと、感想などを聞いてみたので、後日、ここに書いてもらうか、以前重松さんがされていたように僕の筆記で感想載せます♪
     
    2006年09月09日(土) 1:37:12
    219.110.187.70 [unknown]


■研究集会を終えての感想
  山崎義光  
 発表者の山崎です。
 有意義な場を与えていただきましてありがとうございました。
 当日、また、終ってから思った感想を、若干ここに書かせていただきたいと思います。
 少々長くなってしまいますが、お許し下さい。

◆当日、あまり問題にされませんでしたが、田中先生のご講演の内容、石田さん、佐藤さんのご発表、そして私と、重なるところが目立ったような感じでしたが、違いもありました。
 その違いは、どんなところにあったのだろうかを、私なりに整理し、感想を記してみたいと思います。

 田中先生がご講演で、ご自身の文学体験をベースにお話しくださった「文学に向かう態度」は、私とはやはり違うのだなぁということでした。
 「死への不安に導かれて文学に向かう」という姿勢。テクストと接することで読み手に跳ね返ってくるところに現れる〈作品〉というとらえ方。「作品に拉致される」ようにして読むという姿勢。
  「作品に拉致される」という言葉からは、昭和10年前後の亀井勝一郎(だったか)が「作品に掴まれる」という言い方をしていたことを思い出しましたが、い わゆる「人生いかに行くべきか」を文学に求める真摯で倫理的な姿勢と言えます。〈死〉から折り返して文学に対するという態度というのは、端的に言って、 「実存」的に文学を受け止める読み方だと言えると思います。
 こうした文学に向かう態度は、それはそれでありだと思います。それこそが「生きた文学」としての受け止め方だということも、一つの態度として理解できます。ある場合には、私もふくめて、誰もがこうした受け止め方をすることがあるとも言えると思います。

 そして、個人作家のテクストを系統立てて読むという読み方も、ゆるやかにではあれ、こうした姿勢に連なるように思います。

  その意味で、石田さんが、最後のところで「死の記憶を経験としてその後の〈生〉のなかで受け止めていくことではないだろうか」とおっしゃっていたこと、そ してそれを亡妻キミを描いた作品群に結びつけていたことは、田中先生の「文学に向かう態度」との近接において理解できるようにも思うのです。
 ただし、石田さんのご発表では、テクストの細部をどう読むかという観点から入り、〈現象としてのテクスト〉をいかに読むかという、「現象学」的なところに力点をおいた形ではありますが。

 こうした点で、田中先生の文学に向かう姿勢と私とは隔たりがあるように感じました。
  私の姿勢はといえば、〈死〉や読み手に跳ね返ってくる〈作品〉に定点をおいて、テクストの〈意味〉を読み取るのとは異なって、もっと頼りなくフラフラして いて、「このテクストをどう受けとめることができるだろうか」という戸惑いの方を先において、その戸惑いのなかで〈意味〉を産出する文脈をどう設定するか を考え、読むことの愉しみ、もしくは批評性とこそ出あいたいと思っていると言った方がよいように思います。そういうことができているかどうかは別ですが。

 佐藤さんのスタンスは、「文学的な言説を思想史的に位置づける」ことがテーマだとおっしゃっていましたが、最後の方では、〈今〉読むことの批評性という観点でお話されていました。
  一方では、大量死をもたらした2つの世界戦争の戦間期小説としての「蠅」という見方をされていました。しかし他方では、それと対極的に、可動的で〈重力〉 から解放された浮動的な視点だからこそ、我がこととして受けとめることからは距離をおきつつも、多元的に見ることを可能にし、そこから連帯へとつながりう る可能性をももちうる、その意味では、ネット文化の視点との近似性を「蠅」は示唆するのだともおっしゃっていたと思います。そうした対極的な二面から、 「蠅」の批評性を示唆されていました。
 「蠅」の読解を、うまく後者のような見方にも接続できるのかどうかは、にわかに言えませんが、とりあえず、そういう批評性において読もうとされていたと思います。

 私の文学に向かう姿勢も佐藤さんに近いかと思います。ただ、私の場合は、批評的しなやかさに欠けるので、〈今〉「蠅」をどう読むかについての積極的な読み方の提案にまでいたりませんでした。

  私は難波氏の論文を批判だけしたように受け止められたかもしれませんが、難波氏の視点の取り方も、実は、教材の〈現在〉における批評性というところにあっ たのだと思います。そういう視点の取り方は、佐藤さんのスタンスと近いと言えると思いますし、そのこと自体には、私も賛成なのです。
 ただ、私の 批判の論点は、その批評性が依拠しているところに、「目的論的な規制」がつよく働いているため、ご本人がおっしゃっていること自体に矛盾をきたしていると いうことでした。すなわち、メタ認知の変容こそが教育内容として重要だと言いながら、「同化読み」という枠組みだけは固定するという矛盾に陥っている点で す。
 その意味で、私は、難波氏の論文については両義的だったと言えます。

◆もう一点、今回の議論で思ったことは、「教師」の教室のなかでの立場の問題です。これは発言のなかでたびたび問題になっていたことでした。

 「権力者としての教師」というとらえ方だけに終始してしまう、強権ふるう立場にあることを「ゴメンナサイ」とだけいうような議論の仕方はよくないと佐藤さんがおっしゃっていたことは重要だったと思います。

 でも、オールタナティヴの「教師」のあり方については積極的な議論はありませんでした。

 「教室」にはたらく「制度的な規制」によって、「教師」は権力者の位置にあります。ですが、実際の教室のなかでは、大勢の学生(生徒)さんを前にたった一人で立っている弱い立場でもあります。

 私は、端的に言えば、「マゾヒスト」(ドゥルーズ)であることが、「教師」のあり方の一つのあり方だろうと思っています。それを私ができているかどうかは別ですが。

  会場で最後に言いましたが、現場では、まず、上手く問いを発し、学生・生徒の関心を惹きつけなければ、テクストを介したコミュニケーションは成立しませ ん。そして、学生(生徒)とのなんらかの言葉のやりとり(対話)が成り立たないところでは、有意義な「教室」は形成されません。
 学生のあれこれの発言や反応を、まず快として堪えて受けとめること、にもかかわらず、それは自分が誘発しており、「教室」という場の役割として、超越論的には自分が誘導する立場であることに軸をおいておくという態度です。
  学生の発言や反応を誘発することが戦略的に有効ですが、しかし、予想外であったり、的外れであったり、好意的ではなかったりもするそれらの言葉や反応に対 して、沈黙に陥ったり、言わせるだけで答えないのでもいけないので、それらを自分が語ることの快の源泉とし、それを動力として活かしながら語らなければな りません。
 そうするためには、戦略的に「教師」は、語りや対話のキャッチボールを形成する「芸」をこらすことが求められるように思います。

 これは、プラトンの産婆術としての対話のようなものだとも思います。ただし、真理への確信を保有しないで格闘するプラトンですが。
 その態度は、ユーモアでもあり、イロニーと言ってもいいのですが、そういう柔軟さが求められるあり方が「教師」の一つのあり方になりうるだろうと思うのです。

 とかなんとか言いながら、発表した私をご覧になったみなさんが一番よくご存じの通り、とりもなおさず、私自身に「芸」がないのですが。

 授業の方法の問題というのは、その意味で重要だと思います。

 長々と失礼いたしました。
 
[No.86] 2006年09月04日(月) 18:51:22
219.127.242.122 [unknown]
    ■Re: 研究集会を終えての感想
      野中
    本当は発表者の山崎さんよりも先に、聞いていた私が感想を記すべきですが、
    ひとつだけ質問を。

    当日したけれど、時間の関係でお答え頂けなかった質問です。

    山崎さんは、定番教材の共通点として、
    「自己意識をめぐる物語」ということをおっしゃっていました。
    掲示板ですから、詳しく説明するのは面倒だと思いますが、
    どういうことなのか、かいつまんで説明して下さい。

    それから、山崎さんのいう「自己意識」は、「蝿」にも見出せますか?
    HOME 
    2006年09月05日(火) 0:38:14
    219.179.250.7 [unknown]
    ■Re: 研究集会を終えての感想
      山崎義光
    ◆当日私は、こんなふうにしか説明しませんでした。
    -----
     定番教材が好んで採用される理由は一つではないだろうと思います。が、共通するのは、自己認識、自己意識をめぐる物語だという点で、それは、「自己再帰的な主体」に照準を合わせた教科書の言説編成に適合するといえそうです。
      「羅生門」は、「下人」が「盗人」として自認し盗人になる物語ですし、「山月記」は、虎となった自分の半生と苦悩を語り自らを反省する物語です。また、 「こころ」は、Kに対する自己意識の物語で、「舞姫」は、エリートとしての自分から逸脱した「我」の物語だという風に把えられます。
    -----

    ◆自己意識は、規範的、鳥瞰的、場合によっては過去を振り返る視点から「自己」を見る視点、もしくは、他者が「自己」を見る視点などの「超越論的な視点」と、「自己」の欲望につきうごかされた内在的な視点との、二重の視点が相関して成っていると理解しています。
     自己認識は、(そうした葛藤の末に)、「自己」を何者かとして認知する認識という理解です。

      たとえば、「羅生門」においては、下人は、もはや「下人」ですらなくなり行き場のない今、「これからどうしようか」を思い悩み、どうしようもないことをど うにかするためには「盗人」になるほかないが、そうは思い切れないと考えています。これは、超越論的な視点からの自己規定を失いつつ、生きる欲望につきう ごかされた内在的な〈自己〉の葛藤ということになります。「下人」ではありえない、が、「盗人」になることには踏み切れないのは、自己を客観化する超越論 的な視点に立って、盗人になることを「悪」だと見做す規範的な視点があるからです。最終的に、老婆の話から、「盗人」たることを肯定する論理を得て、下人 は追いはぎし「盗人」になるわけですが、それまでの葛藤と、最終的に「盗人」として自己を認識するにいたるまでの物語と把える意味で、自己意識、自己認識 をめぐる物語という把握の仕方ができると思います。
     「山月記」においては、「狷介」な李徴は、郷党の鬼才と呼ばれる他者の視点を含みながら自分 を天才とみなす内在的な視点での自信から、詩家として名をなそうとします。しかし、その詩を評価する他者(超越論的な視点)からは認められない。そこに葛 藤が生じてきます。虎の姿となってからの李徴は、今度は、自分の過去を振り返る超越論的な視点から、「傲慢な羞恥心」を抱えていた人間だった過去の自分を 振り返って反省し、友にその心中を語ります。
     「こころ」では、他者たるKは、「私」(先生)にとって規範的な存在で、内面化された超越論的な視 点を形成する基点となります。「私」(先生)の葛藤は、Kのような、道に精進する誠実な人のあり方に照らして、自分のKへの態度を卑劣と見做す超越論的な 視点と、お嬢さんをわがものとしたいという内在的な視点との葛藤ということになろうかと思います。
     「舞姫」は、官僚として他者に認められる存在 としての「昨日までの我ならぬ我」が、「まことの我」の覚醒によってエリスへの愛情を抱くにいたる内在的な視点を持ちますが、その後、エリスに対して誠実 でなければならぬという規範的な視点と、官僚として他者に認知される「我」という二つの「我」の、どちらの「我」を選択するかと思い悩むことになります。
     「城の崎にて」の場合には、死んだ、動騒する〈生きもの〉を自分の姿に重ねる内在的な視点と、それを〈死〉の側に立った事後の視点あるいは外から眺め意味づける超越論的な視点との間で、自己の死についての認識が語られます。

     だいぶ粗雑ですが、このようにとらえたとき、定番教材たるこれらの小説は、自己認識もしくは自己意識をめぐる物語を共有していると把えられると思います。

    ◆こうした観点からは、自己意識もしくは自己認識の物語として「蠅」を読むことは難しいことになります。
     
    2006年09月05日(火) 20:16:25
    220.157.231.227 [unknown]
    ■Re: 研究集会を終えての感想
      野中
    とても丁寧に説明して頂けたので、よくわかりました。
    ありがとうございます。
    「舞姫」の「余」とか、
    「こころ」の2人の「私」とか、
    人称の問題を脇に置いて考えると、たしかに「自己意識」という言葉で説明できそうですね。
    「蝿」との差異も納得できます。
    HOME 
    2006年09月05日(火) 23:10:09
    219.179.250.7 [unknown]
    ■Re: 研究集会を終えての感想
      野中
    改めまして、山崎さんのご発表やこの掲示板への書き込みを読んで感じたことを、
    思いつくままに記します。
    できるだけ「教室のなかの横光利一」に引き戻す形で…。

    この掲示板で取り上げられた明治書院の『新編国語総合』では、
    「小説(2)」という単元に「蝿」と「羅生門」が収められています。
    単元の扉には以下のように書いてあります。

    ○表現に即して,作者が訴え掛けているものを理解しよう。
    ○登場人物の性格・心情・行動などを読み取り,作品の世界を味わおう。
    ○様々な状況の中で生きる人間への認識を深めよう。

    難波博孝さん的な「メタ認知」にあてはまるのかどうかはわかりませんが、
    教科書の教材配列や扉の文言から考えると、
    何らかの“メタ認知”が期待されているように思えます。
    「羅生門」と並べられた「蝿」という教材が、
    国語の授業を行う教室のなかでになう“メタ認知”の位相は、
    もしかすると『国語教科書の思想』を書いた石原千秋さんのいうような、
    「道徳科的なイデオロギー」に近いものなのでしょうか。

    たとえば、発表者の佐藤さんが言っていた「戦間期文学」としての「蝿」が獲得した、
    “テクノロジーの眼”というような読みや、
    石田さんが言っていた「生の地平を歩んでいくための認識」といったものも、
    ある意味では“メタ認知”ということになるのではないでしょうか。

    そういう読みを強いる力、
    あるいはそういう読みを肯定的に受け止めさせる力、
    教室のなかだけではなく、
    教室の外にもあるかもしれないそうした力に興味を持ちました。

    どうもあんまりうまく説明できないのですが、
    佐藤さんが寄稿している『ユリイカ』の特集「理想の教科書」なども読みながら、
    研究会当日に感じたことを、
    自分なりに反芻しているところです。
    HOME 
    2006年09月07日(木) 17:23:02
    219.179.250.7 [unknown]


■(no subject)
  石田仁志  
発表者として、アイハラさんのコメントに一言。
『蠅』が様々な物語を内包しているという理解は、私もそう思います。乗客たちが登場する場面を丹念に読む(音読でも黙読でも)ことは、作品の物語構造を明確に読み取る上で必要なことと思います。
そのうえで、仮に高校と大学の教室で「壁」があるとしたら、一つの作品に何時間(何コマ)をあてられるかということでしょう。大学なら2コマが限界では。その中で何を議論するかと考えた時、やはり中心となりうるテーマにならざるを得ないのではないかと思います。

高 校での「国語」の教育内容と、大学でのそれは当然異なるわけで、大学は基本的には「専門教育」(一般教養科目としてもそれは大学人としての専門的な教養で なければならないはず)を行うわけですから、「蠅」という作品について、教師が学生に求める水準というのは、高校までのそれとは異なっていてしかるべきだ と思います。

私のブログにも書いたのですが、大学では「○○について述べよ」という設問をよく出しますが、それは「問い」そのものを学生 自身が考え、それにいての「解答」自体も自分で考えることを求めているのだと思います。文学教育に「正解」があるとして、それは「問い」とセットになって いなければならず、その組み合わせを新しく発見することが、大学での文学教育ではないかと思います。つまりは、新しい視点で作品を読むということを自分の 力でつかみ取れるかが、大切ではないかと思っています。
 
[No.85] 2006年09月04日(月) 17:21:08
125.0.88.121 [unknown]
    ■Re: (no subject)
      宮口
    アイハラさんの発言を〈だし〉にして発言してきた者として一言述べさせていただきます。石田さんが主として取り上げている、高校と大学の壁、については今回は触れません。ただ、

    乗客たちが登場する場面を丹念に読む(音読でも黙読でも)ことは、作品の物語構造を明確に読み取る上で必要なことと思います。

    と いう部分ですが、〈音読〉という話題は、「教室」という「音声言語」が響く場において(もっとも、ひたすらパソコンの画面に向き合う、という「教室」もな い訳ではありませんが)、例えば石田さんが取り上げていた『春は馬車に乗つて』をテキストとして扱う場合に、その会話部分を「教師」が読み上げる際に、そ こに一種の〈演劇的空間(?)〉という場が出現すると想定し、「戯曲」を書いていた横光(及び他の作家)のことを考える契機とする、「教室」における「教 師」の振る舞い(何を述べようとしているのか混乱してきましたので、曖昧な形を取らざる得ないのは私の未熟なところですが)といった形で、誰かが何かを発 言できるのではないか、という気がするのですが。(やっぱり無理でしょうね)
     
    2006年09月04日(月) 21:36:13
    220.145.192.67 [unknown]
    ■Re: (no subject)
      野中
    「蝿」を扱う場合、高校と大学でどこが違うのかという問題に対する石田さんの回答は、
    明快でとてもわかりやすいものだと思います。
    できれば「私のブログ」がどこにあるか、教えて下さい。

    ただし、これは石田さんもおわかりの上で書いているのだと思いますが、
    「〜べき」というレベルにどどまるのではないでしょうか。

    研究会当日の質疑の中でも浮かび上がったように、
    ひとくちに高校と言っても、いろいろな生徒がいて、
    いろいろな教室があり、いろいろな教師がいます。
    大学も同様でしょう。

    たとえば高校で小論文の演習などをする場合は、
    高校生にも「自分で問いを立てて論証し、
    答えを出させる」という活動をさせることがあります。
    総合的な学習の時間のような形で、もっと本格的にやる場合もあります。

    一方、大学の講義は、実学的な内容にシフトしていて、
    基本的な読み書きの能力を重視するものが増えているような気がします。
    場合によっては、高校の現代文の授業に近づいているのではないでしょうか。
    HOME 
    2006年09月05日(火) 0:29:24
    219.179.250.7 [unknown]
    ■Re: (no subject)
      アイハラ
    返信ということでは なく、今回のテーマに対して思ったことなのですが、「教室」といったとき、さまざまな〈教室〉が存在するということは非常に興味深かったのですが、論点を 考えますと、「教材の中の横光利一」「教材としての横光利一」ではダメだったのだろうか、と考えます。おそらくこの掲示板でも議論されていますが、この温 度差が少し感じられる気がするのです。感想というか、思ったことです。いや、思っていたことです。

    そういう意味では、宮口さんの発言は非常に面白く受け止めました。

    そういえば、ここの掲示板はいつまで存在していてくれるのでしょうか?
    書き込みがなくても、ずいぶんと「読んでいる」という感想を時々聞きます。
    こういう場を作られた田口さんにいまさらながら感謝です。
     
    2006年09月06日(水) 1:32:44
    219.110.187.70 [unknown]


■大会の感想
  アイハラ  
発表者のお三方。司会の田口先生、ありがとうございました。緊張しながらも、楽しく拝聴いたしました。

まずは、突然の指名に吃驚して、声が震えてしまいました。意外と緊張するタイプなのです。お恥ずかしいところを…。初学会以来の緊張でした。

さて、さっかくご指名いただきましたのに、声も上ずりうまくしゃべれなかったので、こちらにも改めて感想を。初感想でしょうか…。感想というか、疑問というか、独り言です。

教室で「蠅」を読む意味や、「蠅」は教材として適切かという問題が会場から出されていました。
こ れに関して思うのですが、高校生と「蠅」の話をすると意外に会場でも発言しましたように、生徒に音読させると「お母ァ、馬馬」「ああ、馬馬」のところで、 彼らは読み方を一様に悩むのです。この「ああ」のイントネーションや発音のようなものを彼らなりに考えているのだと思われます。また恋人同士で逃げる際の 会話、農婦と馭者の会話など、生徒たちは実に多くの会話の有り様を考えるようです。
生徒にとって、いろいろなバリエーションのある登場人物の境遇は、ある生徒は恋愛に悩み、またある生徒は親子関係に悩み、またある生徒は父の面影を追い、というように自分の身丈(?)にあった人物に寄り添うことを可能にしているのではないかと思うのです。
つまり「蠅」は、音読した生徒にとって登場人物に共感(投影)しやすい作品だといえるのではないかと思うのです。
こうもいえるでしょう。「蠅」は、さまざまな主人公のドラマをそれぞれ内包した作品であると。
しかし、「蠅」は大学において多くは蠅を中心に読まれてきました。主要論文の多くは、蠅の眼について言及されています。
ここに、ボクは今回のテーマである「教室のなかの横光利一」を考えたときに、高校の教室と、大学の教室との間に、何かしらの壁を感じたのです。
大学では黙読を、学校では音読を前提としていると思います。その「音読する『蠅』」を考えると、「蠅」がどう読めていくのか。そういうことを考えた一日でした。
 
[No.84] 2006年09月03日(日) 6:38:59
219.110.187.70 [unknown]
    ■Re: 大会の感想
      田口(龍谷大学)
    ■まだ昨日の心地よ い余韻に浸っています。田中実さん、山ア義光さん、石田仁志さん、佐藤泉さん、すてきな発表をありがとうございました。くわえて会場を提供くださった石川 則夫さん、手伝ってくださった國學院大学の学生さんたち、たいへんご苦労さまでした。それから貴重な時間をさいて各地からご参加くださったみなさんにもお 礼申しあげます。また仕事とはいえ裏方に徹してくれた運営委員のみなさんも、ほんとうにお疲れさまでした。みなさんに深く感謝申しあげます。

    ■ おかげさまで第7回研究集会は、たいへん充実したものになりました。その成果は、おいおい形にしていきたいと考えています。むろん反省すべき点もありまし た。もっとも残念だったのは、ディスカッションの時間が圧倒的に足りなかったことです。できれば会場にいらした全員の方から、感想や意見をお聞きしたかっ たのですが、司会の不手際でかないませんでした。さいわい「掲示板」というツールが残されていますので、どなたでも遠慮なく書き込んでいただければと願っ ています。

    ■アイハラさん。さっそくの書き込みありがとうございました。とつぜんの指名で申し訳ありませんでした(笑)。なるほど「音 読」という観点が抜けていましたね。あの独特の会話は、横光の母方の故郷である伊賀上野の方言とされているようですが、ちゃんと確認する必要があるかもし れません。(3月の大会がそういう問題に触れるはずです。)よかったらこれからも、いろんな形でご協力ください。本当にありがとうございました。

     
    2006年09月03日(日) 21:29:24
    58.70.3.45 [unknown]
    ■Re: 大会の感想
      宮口
    宮口と申します。

    ア イハラさんに対して、「利用」などという言葉を用いた〈人でなし〉としては、発言に対して誠実に(でも〈人でなし〉に誠実さを求めるのも変でしょうが)答 えなければならないと思いますので(そんなのいらないよ、と言うことであれば今後は引っ込みますが)、一言述べさせていただきます。
    アイハラさんの提起した話題、即ち〈音読/黙読〉という点ついては、指導書に関わった(ことがとりあえず分かっている)十重田さん・石田さんのコメントがここに掲げられることを期待してもいいのでは、と思います。
    もう一つ付け加えるのならば、(勝手な個人的な思いこみに過ぎなかったのですが)
    今 回の研究会が『蠅』をどう読むのかについて、ということを巡り、「教室」等において何等かのものが与えられる立場にある人々が感じ取ったこと(学生さんた ちの感想がそれに相当します)を、『蠅』について語ることになる(可能性のある)あなた(って誰?)がどのように受け止め、実行(?)するのか、というこ とについて、収拾のつかなくなるような議論がここに記される可能性を夢見ることも出来ないでしょうか。アイハラさんのおっしゃるところの「高校の教室と、 大学の教室との間に、何かしらの壁を感じた」ことについての、結論は出ないけれども言いたいことは明確に伝え合える場、そのような形をとれないでしょう か。この掲示板が継続されのであれば、そんな期待を寄せて(いいのかな?)います。

    あと、どうでもいい補足ですが、文字の色を緑に変えました。立場がどうこうというより、灰色は見づらいと思ったからです。
     
    2006年09月03日(日) 21:44:31
    220.145.192.67 [unknown]
    ■Re: 大会の感想(補足)
      宮口
    前掲の文章で、

    (勝手な個人的な思いこみに過ぎなかったのですが)

    という部分は、全く無関係というわけではありませんが、別の話題へと続けるつもりで書き記したもので、本来なら消去されているものですので(お読みになればすぐにお分かりでしょうが)、無いものとしてお扱い下さい。
     
    2006年09月03日(日) 21:59:48
    220.145.192.67 [unknown]
    ■Re: 大会の感想
      アイハラ
    すみません。田中先生の講演もまた興味深く拝聴させていただきました。さきほどの書き込み「発表のお三方」としてしまっています。申し訳ありません。

    あまり緊張しないこころを持てるようにがんばっていきます。笑
     
    2006年09月03日(日) 22:36:38
    219.110.187.70 [unknown]
    ■Re: 大会の感想
      野中
    昨日はとてもたくさんの刺激を受けました。
    発表者の皆様、運営委員の皆様、どうもありがとうございました。

    感想は日をあらためてじっくり書きたいと思いますが、
    田口さんが「司会の不手際」という言葉を使われたのでひとことだけ。

    質疑応答のときに、限られた時間だということがわかっていながら、
    手を挙げて言いたいことを一通り言ってしまいました。
    ああいう状況の中では、かりに言いたいことを一通り発言したとしても、
    最終的には問いを1つにしぼるべきでした。

    私は、言いたいだけ言って、それぞれの発表者に別々の質問をしてしまったのですが、
    ああいう聞き方をしてしまえば、
    議論が拡散してしまい、討議がうまくいかなくなるのは目に見えています。
    司会の田口さんが、発表者の回答をはしょったのは当然のことだったと思います。

    朝になって酔いが醒めて、あの聞き方はまずかったなと反省しました。

    シンポジウムって難しいですね。
    HOME 
    2006年09月03日(日) 23:35:31
    219.179.250.7 [unknown]


■まとめ。
  田口(龍谷大学)  
■この「掲示板」を 開設して、ちょうど2ヶ月。大ざっぱな見積もりでは、120件を超える書き込みがあり、文字数としては6万字になんなんとしています。これまで参加してく ださったみなさん、本当にありがとうございました。管理人の不手際で、うまく交通整理ができませんでしたが、おおよそ以下のような論点が提出されたと思い ます。

1-1 結末のカタストローフについて。
1-2 蠅と人間の関係について。
1-3 人間の欲深さについて。
1-4 「目の大きな蠅」について。
1-5 構成について。
1-6 文体について。
1-7 教材として是非について。
2-1 語り手について。
2-2 「解釈を誘発する装置」について。
3-1 「教師」の役割について。
3-2 「教科書」の説明責任について。
4-1 教材史における「蠅」の位相について。
4-2 文学史における「蠅」の位相について。

■ 本来なら、一つひとつの項目について、意見を集約し、問題を整理すべきところですが、ぼくの能力を超えています。さいわいこの「掲示板」には、「ワード検 索」がついていますので、「3-1」とか「4-1」というふうに数字を打ちこんでくだされば、その議論の周辺に到達できるようになっています。また、 No.44、72、76あたりに、途中経過を集約していますので、ご参照ください。

■「教室のなかの横光利一」、「教室のなかの「蠅」」 を徹底解剖しようとして始めたこの企画。結果的に、いろんな立場のリアルな声を聞くことができました。まだ隠れた問題もあるでしょうが、とりあえず議論の ための食材は、じゅうぶん整ったと思います。あとは、4名の名シェフの手のこんだメインディッシュを堪能するばかりです。

■それでは、みなさん。9月2日午後1時に、國學院大学でお会いしましょう。

※付記。この「掲示板」の書き込みは、ひきつづき可能です。また、研究集会終了後は、参加した人による「印象記」を自由に綴ってもらおうと思っています。こちらもご協力よろしくお願いします。
 
[No.83] 2006年09月01日(金) 7:12:00
58.70.0.200 [unknown]


■「蠅」の感想
  堀内(東洋大学3年)  
「蠅」から感じたのは、作品中、蠅は一に登場してから二〜八には、登場せず、九、十では、作品の題にもなっているということを読者が納得させられるインパクトをもって描かれているということです。
 それぞれ目的を持って馬車に乗り込んでいる乗客の目的は果たされず、馬車の車体の屋根の上で体を休めていた蠅は、悠々と青空の中へ飛んでいく…。淡々とした文章の中から不条理な世界観を感じました。
 
[No.82] 2006年08月31日(木) 23:33:37
58.93.167.65 [unknown]


■「指導資料」から。
  田口(龍谷大学)  
■こちらのミスもあって、出版社に承諾をもらうのに手間どってしまいました。やっと教師用「指導資料」の一部を紹介できます。資料は、2006年度明治書院『新編国語総合』の「指導資料」。執筆は十重田裕一さんです。

■分量は、「蠅」だけで29ページ。かなり丁寧に書き込まれています。全部を紹介することはできませんので、まず項目だけを列挙し、のちに重要と思われる箇所を引用します。
・教材のねらいと指導計画案
・作者と出典
・主題と構成
・学習活動のポイント
・評価
・指導上の注意点
・語句の研究
・キー・ポイント
・鑑賞
・参考・参考文献
・【学習の手引き】の解答例
・【言葉の学習】の解答例

■ まず冒頭「@選定の理由」は、つぎのようになっています。「「蠅」の小説教材としての要点は次の二つに集約できるように思われる。一つは新しい感覚の言葉 を使い表現されている点。もう一つは、そうした新しい言語を駆使しながら、生死の問題が人間存在の意志を超えた運命に翻弄されるという主題を象徴的に表現 した点。つまり、新しい言語表現を通じて人間存在の普遍的主題を象徴化、構図化させたところにこの小説のおもしろさがある。」(p220)

■つぎに「A指導のねらい」は、つぎのようになっています。「構成・主題ともに明確な小説を読むことを通じて、小説読解の基本を身に付ける。そのため、まずは三点について考えてみる。
(1) 各章の精読を通じ、作品全体の構成を把握する。
(2) この小説にみられる言語表現の特色に注目し、それが生み出す効果を考える。
(3) 不条理・宿命、人間存在の不安など、この小説から読み取れる主題について考え、文章化してみる。」(p220)

■以上のように、この「指導資料」の立脚点は、かなり明確であるといっていいでしょう。それがさらに明確になるのは、「主題と構成」の項目です。十重田さんは、「蠅」の梗概を示したあとで、「主題」をつぎのようにまとめています。

■ 「乗客が馬車もろとも崖下に墜落してしまった直接の原因は、馭者の居睡りに求めることができる。そして、さらにつきつめて考えたとき、居眠りを誘発したま んじゅうに注目することができる。このまんじゅうは、馭者の欲望を満たす対象であり、その意味において出発を遅らせていた原因となっていた。そう考える と、それぞれ異なった境遇にある人間たちの運命を支配していたのは、モノであるまんじゅうであるという見方ができる。だが、馭者も乗客たちもそうしたこと に気付くことなく、思いもかけず墜落死することになる。」

■「また、馬車に乗った人々が崖下に墜落する姿と、すべてを予見していたかのように、ただ独り悠々と青空に飛翔する目の大きな蠅との対照的構図を視野に入れて考えるなら、この小説の主題として五〇字ほどで要約すると以下のとおりとなる。

 まんじゅうや蠅などのモノと同等な、あるいはそれ以下の卑小な存在として相対化される人間存在。

 あるいは、馭者がまんじゅうを食べ、居眠りをしてしまった偶然という点や、馬車の墜落が人知を超えた宿命あるいは運命であるという点を重視するのであれば、以下のようなまとめ方も可能となるだろう。

 自らの意志ではどうにもならず、偶然や宿命に翻弄されてしまう不安定な人間存在。

 いずれにせよ、小説全体を正確に読んだ後に、そこから主題が論理的に導き出されることが大事である。その意味で、主題は一つに限定されるとは限らない。」(pp224-225)

■引用の許可をいただいた箇所は以上です。こうした教師用「指導資料」の言説をどう対象化するかは、今回の研究集会にとって、重要な問題のひとつになると考えます。みなさんのご意見をお聞かせください。

■最後になりますが、ご協力くださった平安高校の森本先生、明治書院の諸木さん、教科書編集部長の高木さん、執筆者の十重田さんには、あらためて深く感謝申しあげる次第です。
 
[No.80] 2006年08月29日(火) 19:55:07
219.122.176.73 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。
      宮口
    宮口と申します。

    この話題に関して発言を続けてきた者として、あえて議論を引き出すべく(出来るのかな?)少しコメントさせていただきます。
    とりあえず、自分では出来ないせいもあり、「こういう形でまとめることが出来るのか」という単純な感動がありました。
    もう一つ、

     いずれにせよ、小説全体を正確に読んだ後に、そこから主題が論理的に導き出されることが大事である。その意味で、主題は一つに限定されるとは限らない。」(pp224-225)

    という指摘は(それを受け止め実行できるか、という点を考えない限りにおいて)感動的でした。

    さて、高等学校の「教室」に持ち込まれる大学の「講義室」の議論、という観点からすると、

    一つは新しい感覚の言葉を使い表現されている点。

    という時の「新しい」が示すのは何か、という点、

    そ して、さらにつきつめて考えたとき、居眠りを誘発したまんじゅうに注目することができる。このまんじゅうは、馭者の欲望を満たす対象であり、その意味にお いて出発を遅らせていた原因となっていた。そう考えると、それぞれ異なった境遇にある人間たちの運命を支配していたのは、モノであるまんじゅうであるとい う見方ができる。

    という際の「饅頭」の位置付けや、「モノ」というまとめ方に対する反応、(両方とも違和感がない人が大部分かもしれませんが)といった点での両者の落差(ないかもしれませんが)をどのように捉えるのか、といった部分が少しでも明らかに出来ないでしょうか。
     はっきり申し上げて、論理より、今までの行きがかりの上で記していますので、これだけでは議論はふくらみにくいと思いますが、誰かに何かを発言していただきたいと思います(勝手だし無理でしょうが)。
     
    2006年08月29日(火) 23:20:59
    218.217.103.232 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。
      田口(龍谷大学)
    ■宮口さん、ありが とうございます。尻馬にのって、ぼくもちょっとだけ問題提起しておきたいと思います。十重田さんが執筆された「指導資料」は、たいへんよく整理されてい て、まるで教科書の教科書をみるような印象でした。しかしそうであるがゆえに、問題点もはっきりみえてくるような気がします。

    ■端的にいえば、十重田さんが重視しておられる「蠅」の2つのポイント、
    A「新しい言語表現」(形式)
    B「人間存在の普遍的主題」(内容)
    この2つの関係をどう理解し、説明するかということです。これまでたくさんの方が書き込んでくださったように、Bについては、おおかたの見解が一致するようです。(もちろん個人差はありますが、最大公約数という点で「定説」に近いものと考えてよいと思います。)

    ■ しかし、Aにかんしては、一握りの読者をのぞいて、ほとんどがスルーしてしまっているようにみえます。また十重田さんにしても、「新しい言語表現」を、 「視覚的表現」・「聴覚的表現」・「比喩的表現」というふうに実体的に整理し、その「効果」に注意をうながしていますが、どこか隔靴掻痒の感をぬぐえませ ん。

    ■これは、この教科書を使用する高校1年生のリテラシーを考慮すれば仕方のないことなのかもしれません。しかし私たちは、この問題を きちんと説明する原理や共通理解をもっているでしょうか。そもそもAとBの関係は、横光自身がいちばん腐心した問題だったはずです。新感覚派文学の評価を めぐっても、そこがいちばん問題になってきました。

    ■といって、自分にもうまく説明できないのが情けないのですが、この古くて新しい問題をめぐって、すこしでも情報交換できたらいいなと考えています。


     
    2006年08月30日(水) 11:51:21
    58.70.2.5 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。
      野中
    明治書院の『精選国語U 二訂版』(1992〜1996)の指導資料が手元にありました。
    監修者(市古貞次、長谷川泉、築島裕)の一人が執筆しているであろう「総論」には、
    饅頭によって人間の運命が左右される皮肉とか、
    乗客と蝿の対比とか、
    文体とか構成とか、
    「多様な面からアプローチが期待できる教材」だと書いてあります。
    教師にとっては「何かを教えた」という満足を得やすい教材なんだと思います。

    単元解説の執筆者は十重田さんではなくて森山晴美さんです。
    森山さんの記述の特徴は、文学史的な解説に比較的多くの紙幅を費やしていることです。
    「指導計画」では「導入」のところに、
    「新感覚派の作品」であることを説明するという項目が立てられています。
    2段組2ページ弱にわたる比較的詳しい「略年譜」もついています。
    磯田光一の「横光利一という問題」(1982年12月17日『朝日新聞』夕刊)が、
    全6時のうちの第5時の授業で「文学史的位置付け」を行うための資料という形で紹介されています。
    しかも、磯田光一の文章を指導資料からそのままプリントして生徒に配ることを提案しています。
    「文学史」の問題です。
    このへんのところについて、十重田さん執筆の指導案の場合はどうなっているんでしょうか?
    HOME 
    2006年08月31日(木) 12:59:43
    61.118.173.81 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。
      田口(龍谷大学)
    ■野中さん、新しい情報ありがとうございました。明治書院の『精選国語U 二訂版』(1992〜1996)の「指導資料」では、「文学史」が重視されているのですね。磯田光一の「横光利一という問題」は、どんな内容でしたかね。記憶があいまいです。

    ■十重田さんの「指導資料」にも、2段組3ページ弱にわたる作家紹介がついていますが、「文学史」の位置づけは、それほど重視されていないようですね。あくまでも作品の「主題と構成」の理解が第一義になっているような気がします。

    ■ 佐藤泉さんの『国語教科書の戦後史』[2006.5勁草書房]によれば、戦後初期の国語教科書は、「文学史」に力点をおいていたそうです。この場合の「文 学史」とは、「過去の文学年表的事実をたどるものであるより、近代市民社会にいたる歴史、あるいは普遍的人間性への信頼を象徴し、社会の民主化と個人の主 体性確立をはじめとする戦後的な理念を組織した言説だった」(p115)とのことです。

    ■しかし、「六〇年・七〇年の改訂を通し、脱文学史という方向性がくりかえし確認され明確化される」ようになり、「すぐれた文学を豊かに読み味わう、という読書行為が推奨される」ようになります。この変化を、佐藤さんはつぎのようにまとめています。

    ■ 「非歴史化され非社会化された文学作品は、社会と歴史のなかにいる人々が自分の位置を参照しながら読むものではなく、個々人が余暇を有意義かつ文化的にす ごすために「読み味わう名作」となっていく。文学の脱文学史化は、結局のところ文学的行為者の総体をプチブル個人へと成型する作用をもたらした。」 (pp117-118)

    ■横光の「蠅」の扱われ方にも、以上のような歴史的推移がゆるやかに刻印されているのかもしれません。森山晴美さんは、どこに立っていたのでしょうか?
     
    2006年08月31日(木) 14:00:50
    58.70.107.106 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。
      野中
    ■森山さん(たぶん歌人の森山晴美さんだと思うのですが)の場合はわかりませんが、
     割り当てられたページ数を埋めていくために、
     小説の場合なら文学史的事項や著者の伝記的な問題に言及するのは、
     ある意味で指導資料執筆者の常套手段だと思います。
     文学事典などに載っていることをまとめるだけで枚数稼ぎができるんですから、
     こんなに楽なことはありません。

     何を隠そう、私もやったことがあります。

    ■それから磯田光一の「横光利一という問題」に何が書いてあったかについて。

     指導資料からの孫引きですが、ざっと要点を拾ってみます。

     関東大震災以後に登場してきた昭和の新文学の旗手たちと、
     大正時代の私小説が対比されています。
     畳と障子の家で古来の“月”をながめることができるという前提が私小説の基盤で、
     デパートの屋根に月が出るという“新しい現実”が新文学の基盤だと言っています。
     言い換えれば、“花鳥風月”の美学が崩壊し、
     小説の美学が根本的な改変を受けたところに横光利一登場の意味があるということです。
     そういう文脈の中で、「頭ならびに腹」の冒頭部が引用され、
     「…この文章を、文学史的なメタファーとして解読するとき、私にはこれが横光利一の文学宣言のように思われてくる」
     と言っています。

     そして「蝿」「静かなる羅列」などから「機械」にいたる「初期作品」を、
     「人間が外部の偶然的な力の前に、無残にも翻弄されてゆくさま」を描いた作品として位置付けます。
     そのあとに、「上海」にも言及しています。
     さらに結びの一文では、横光利一の実験を先駆とする作家として安部公房をあげています。

     かなり乱暴ではありますが、文学史的な見取り図を提示したエッセイです。

     で、こういう文章を生徒たちに読ませることを想定した指導案になっているわけです。
    HOME 
    2006年08月31日(木) 15:25:31
    61.118.173.81 [unknown]
    ■Re: 「指導資料」から。特に「文学史」について
      宮口
    宮口と申します。

    野中さん、田口さんの発言をたどる中で思い浮かんだことを述べさせていただきます。

    それは単純化するならば高等学校の「教室」における「文学史」とは?、という問題です。
    大 学の「講義室」はともかくとして(と言っていいのだと思う位に大学という場に期待を寄せているような形を取るのはイヤミな発言かもしれませんが)、高等学 校での「教室」で、結局「文学史」という問題が、変な譬えかもしれませんが、「歴史」における年号の記憶と同様な形でしか扱うことが出来ていないのではな いか、という疑問が出て来てもおかしくはないと思います。それに加えて「文学史」としての知識を前提とする形で議論を組み立てる授業がなされることとのつ ながりはどうなっているのか、という話題も取り上げられて当然のような気もします。
    そこで出てくるのが「教科書」であり、「指導書」となるわけでしょうが、小説を〈読む〉という行為における〈時間〉の問題についての有意義な発言も期待されていると思います。
    そのようなことを感じました。
     
    2006年08月31日(木) 17:04:43
    218.217.103.232 [unknown]
    ■4-2文学史における「蠅」の位相について。
      田口(龍谷大学)
    ■野中さん。レスポ ンス、ありがとうございました。「文学史」が便利な埋め草として利用されているとしたら、由々しき事態ですね。また宮口さんが指摘するように、「文学史」 がたんなる(試験用の)知識として扱われるとしたら、「学習者」は砂を噛む思いをさせられるでしょうね。

    ■「歴史」や「文学史」にはいろ んな意味があると思いますが、現在の私たちに直結する問題として認識されない限りは、おおむね退屈でトリビアルなものになりがちです。磯田さんのえがく文 学史のパースペクティブは、汎用性の高いものでしょうが、それが現在の私たちとどう関係しているのかを再審しなければ、机上の空論で終わってしまうおそれ があります。

    ■「蠅」を起点として、「文学史」の叙述を再審すること。今回の企画は、そんな大きな問題にまで踏みこむのかもしれませんね。
     
    2006年09月01日(金) 6:11:05
    58.70.0.200 [unknown]


■そろそろ
  田口(龍谷大学)  
■9月2日の研究集会が目前に迫ってきました。
そろそろ、「掲示板」の最終的な集約をしようと考えています。
大ざっぱな見積もりですが、これまで120件ちかくの書き込みがあり、文字数は5万字をはるかに超えているようです。
ご協力くださったみなさん、本当にありがとうございました。
最後の集約は、ぜんぶを読み返して、今晩あたりにアップする予定です。
(書き込みはまだいつでもOKです。)

 
[No.81] 2006年08月31日(木) 11:50:40
58.70.97.59 [unknown]


■「戦後高等学校国語教科書データベース」から
  野中  
ROMってようかとも思ったんですが、
あと1週間ということで、少しばかり書き込みを…。

以前も触れた阿武泉さん作成のデータベースで調べてみると、
「蝿」をいちばん最初に採録したのは1965年使用開始の清水書院の教科書です。
その2年後の1967年には三省堂も採録しています。
60年代の採録はそれだけで、
70年代も三省堂が引き続き採録しているだけです。

「蝿」の採録がにわかに増えるのは80年代後半からで、
特に90年代以降の採録がとても目立ちます。
「国語表現」が登場したのは“ゆとりカリキュラム”の1980年のことだったと思いますから、
どれぐらい関係があるのかは微妙なところだと思います。
横光利一の小説の何が教科書で教えられようとしていたのか、
というあたりに関係がありそうな事実をあげれば、
「頭ならびに腹」の採録は1986年使用開始の三省堂が最初です。
それ以前にはどうやらないようです。
その後、旺文社や明治書院が追随しています。

教科書編集者や現場の教師が横光利一の小説を使って何を教えようとしていたのか、
ということを考えるための基礎的なデータになると思います。

ちなみに、佐藤泉さんの発表要旨でも取り上げられている「旅愁」の場合、
1950年代の採録が圧倒的に多いのは指摘の通りですが、
その後も1968年使用開始の明治書院や、
1977年使用開始の教育図書、
1985年使用開始の教育出版など、
散発的に採録されています。
私はいくつかのものを見ただけで、
すべて確認していないのですが、
採録箇所はおそらく全部チロルの場面ではないかと思います。

気になるのは、
戦前の中等学校や高等女学校の国語教科書に横光利一のテクストが採録されていたかどうかです。
夏目漱石や森鴎外や芥川龍之介については、
橋本暢夫さんの調査があるのですが、
横光利一についてはよくわかりません。
自分で調べてみたいのですが、
高校教師にはなかなかそういう時間がありません。

ところで、阿武泉さん作成の「戦後高等学校国語教科書データベース」は、
エクセルで作られていてとても使いやすいものです。
関心のある方はCDに焼いたものを入手することができます。
入手方法はこちら↓をごらん下さい。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/gen-chan/anno.html

それから自己宣伝で恐縮ですが、
筑摩書房のウェブサイト内にある↓「ちくまの教科書」で、
http://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho2006/
5月から小さな連載(定番教材の誕生)をしています。
阿武さんのデータベースを活用して定番教材について考えているので、
こちらも関心のある方はぜひ。
HOME 
[No.79] 2006年08月26日(土) 11:44:07
219.179.250.7 [unknown]
    ■4-1教材史における「蠅」の位相について。
      田口(龍谷大学)
    ■野中さん。貴重な情報提供と問題提起、ありがとうございました。こんかいのテーマを考えていくうえで、どうしても忘れてはならないのが、「教科書」そのものの立脚している大きな文脈――佐藤泉さんの著書のタイトルをそのまま借りれば「国語教科書の戦後史」ですね。

    ■このあたりは、佐藤さんあたりからクリアカットな報告がきけるのではないかと期待が高まります。また、「教科書編集者や現場の教師が横光利一の小説を使って何を教えようとしていたのか」を考えるためにも、歴代の教師向け「指導資料」を調査してみる必要がありそうですね。

    ■ たまたまある高校の国語の先生のご助力により、現行の明治書院『新編国語総合』に掲載されている「蠅」の「指導資料」を参照することができました。本会会 員(評議員)でもある十重田裕一さんの執筆です。これは一般に目にしにくいものですので、明治書院さんの許可がおりれば、一部紹介したいと思います。月曜 日にはお返事いただけることになっています。

    ■十重田さんのお話では、「教科書の説明責任は重要だが、簡単にはいかない」とのことです。そこにはいろんな含みがありそうです。むずかしい局面ですが、できるかぎり生産的な議論ができたらいいなと願っています。
     
    2006年08月26日(土) 21:51:27
    58.70.18.251 [unknown]
    ■Re: 「戦後高等学校国語教科書データベース」から
      野中
    ついでに横光利一の小説がどれぐらい採録されているか、
    ランキングの形で全部書き込んでみます。
    数字は採録されている教科書の延べ冊数です。

     1位 「蝿」…26
     2位 「旅愁」…17
     3位 「頭ならびに腹」…9
     4位 「日輪」…5
     5位 「笑われた子」…3
     6位 「赤い色」
         「機械」
        「ナポレオンと田虫」
         「罌粟の中」
         「紋章」

     ※6位はいずれも1冊ずつです。

     なお、最初の書き込みで触れた「頭ならびに腹」の他に、採録数が少し多めと言える「日輪」と「笑われた子」は、いずれも80年代以降の採録です。最近の採録傾向を考える上で注目されると思います。
    HOME 
    2006年08月26日(土) 23:54:46
    219.179.250.7 [unknown]


■あと1週間。
  田口(龍谷大学)  
■管理人からひとこ と。この掲示板での議論は、いちおう研究集会の前日までに、いったん総括しておきたいと考えています。となると残された時間は、実質あと1週間。「教室の なかの横光利一」、「教室のなかの「蠅」」を徹底解剖するには、まだ現場の声が不足しているような気がします。

■これまで議論してきたことを羅列すると、以下のようになります。(詳しくは、No44、72、76あたりをご覧ください。)
1-1 結末のカタストローフについて。
1-2 蠅と人間の関係について。
1-3 人間の欲深さについて。
1-4 「目の大きな蠅」について。
1-5 構成について。
1-6 文体について。
1-7 教材として是非について。
2-1 語り手について。
2-2 「解釈を誘発する装置」について。
3-1 「教師」の役割について。
3-2 「教科書」の説明責任について。

■ 盲点というのは、本人にはなかなか自覚できないものです。(自覚できないからこそ、盲点になるのでしょう。)だれにも気づかれず「馬車」に同乗していた 「目の大きな蠅」のように、この「掲示板」をひそかに注目してくださっている皆さん。どうか「馬車」が「墜落」するまえに、なんらかのサインを送ってくだ さい。
 
[No.78] 2006年08月26日(土) 20:52:45
58.70.18.251 [unknown]
    ■Re: あと1週間。
      宮口
    宮口と申します。
    本来ならば、資料にあたった上で発言すべきですが、発表要旨を見ると、そういった作業を終えている方がいらっしゃると思いますので、おぼろげな記憶に基づいて話をさせていただきます。
    時 期は定かではありませんが(20年くらい前?)「国語表現」ということが盛んに語られるようになった際に、その教材として「蠅」が登場した、という印象が あります。いわゆる〈カメラアイ〉として議論されていたことが重視されているんだろうと考えていました。その記憶を一つの足がかりとすると、大学の講義室 では(今回の書き込みの発言内容からすると、ある時期までは、と言うべきでしょうが)取り上げられていたであろう〈饅頭〉を巡る議論は教科書ではどう扱わ れていたのだろうか、というのが一つの疑問です。
    田口さんの整理に拠るところの 
    3-2 「教科書」の説明責任について。
    あれこれ述べてきたわけですが、それはある意味では、
    1-7 教材として是非について。
    とも関わるかもしれないと思います。
    最初に記したとおり、発表者を通じて具体的なデータが出る(可能性が極めて高い)であろう話題ですが、少しは話の種になればということを目指して一言述べさせていただきました。
     
    2006年08月25日(金) 22:46:22
    218.217.103.232 [unknown]


■「蝿」感想
  サイトウ(東洋大学4年)  
 なんだか寂しい感じの話でした。
 
[No.74] 2006年08月18日(金) 14:54:59
60.36.72.249 [unknown]
    ■Re: 「蝿」感想
      さかな(龍谷大学・3回)
     どうも、他大学のものですが、ちと質問を。

     サイトウさんの感想は「寂しい感じ」という一言ですが、さて、それはどのあたりが、どんな風に「寂しか」ったのでしょう?

     別に、感想が一言だから意地悪しよう、っていうんじゃありません。
     ただ、「寂しい」という感覚が、この作品から読まれるということに少々興味があるのです。

     人が死ぬことが「寂しい」のか、死んだ「だけ」なのが「寂しい」のか、はたまた情景が「寂しい」のかもしれませんし、もしかしたら「語り口」が寂しいのかもしれません。
     気になります。
     
    2006年08月23日(水) 12:40:42
    219.118.93.5 [unknown]


■『高校までと大学の読み方の変化』
  りん(龍谷大学4年)  
 田口先生の『高校までと大学に入ってからで、文学作品の読み方が変化したか?』に対する答えですが、かなり変わりました。

  私は大学に入るまで小説を読む習慣がなく、中学・高校とで読み通した文学作品の数もたしか片手で数えられるほどです。中・高の授業で習った作品は、その場 でだけ読んで、「その作家の別の作品も読んでみたい」なんてさらさら思いませんでした。当時なにを読んだのかさえほとんど思い出せません。印象的だった作 品、というのがないのです。それは私の『読書受信アンテナ』の未熟さ加減のせいというのがかなりありましたが、教師の教え方にも起因していたようにも思い ます。今考えれば、当時の私にとって授業中読むものは『文学作品』ではなく、『試験問題』だったように思います。「ここにこういう接続詞があるから内容は このように繋がる」とか、「この指示代名詞はなにを指しているのか」とかいったような塾や学校で教わった読み方をして、書かれてある内容をただそこにある 知識としてなんとなく頭の中に放りこんでいるだけで、今のようにその作品を読むことをただ純粋に楽しむ、なんてことはなかったように思います。

当 時の私にとって、その小説の読み方・答えは、「教師が言ったり、問題集に載っている答え」ただひとつで、それ以上を考えることも、また考える必要もありま せんでした。だってそうしていれば試験でいい点が取れたし、いい点が取れればそれでよし、といった考え方だったので…。←なんだかすごいガリ勉な子みたい な発言ですが、受験勉強していた子たちって大体がそういった考えで授業で習う文学作品に向き合ってたんじゃないかなぁ、と私は思います。それを、「教師や 問題的にはこういう答えが欲しいんでしょ?」と思いながら答えるか、何も疑わずに「これが答えだ」と思って答えているかは個人によって違うと思いますが。 私の場合は、「自分の考え<試験問題の答え」というのをひたすら繰り返して、そうするうちにその考え方が当たり前になっていたように思います。

田 口先生の「教科書や教師の説明責任」についての見解を読んで。どうも中・高で私のあたった国語の教師は(ひとりを除いて)、「ほんとにこの人国語好きなの かな?」と首をひねりたくなる人ばかりで、その授業も退屈でかなりつまらなかったように思います。教師用の教科書に書かれているのであろう学習のポイント をただ淡々とこなしていくだけで、熱意のかけらもなかったような…。生徒への「ここはどう読めますか?」などの質問の仕方にしても、教科書に書いてある正 しい読みを答える子がでるまであてていく、といった感じでした。たしか。

作品を読みながら、理由はわからないけど自分の感覚にそこに書か れてるなにかが訴えかけてきてなんか体温あがる!みたいな体験もなかったし、そんな読み方も知りませんでした。ただそこに書かれている内容を追って、そこ で起こる出来事を追って、みたいな読み方しか知らなかったように思います。『蠅』は、そのあらすじをただ追って楽しむというよりも、読みながら感覚に訴え かけてくるものがより多い作品だと思うので、そういった点でも教科書に載ってたらいい刺激になるんじゃないかと思います。

あとこれは余談 ですが、授業では、ひとつの作品を何回かの授業にわけて読んでいくので、通して読む、ということがなかったように思います。短い作品でも、時間を決められ て「黙読してください」って指示があって、急いでその内容を追う、みたいな感じでした。よっぽど好きな人でないと、教科書に書かれてる作品をじっくり読む なんてことなかったのでは…。

こんな感じなの、私の通ってた学校だけですかね…?まぁ、ひとつの具体的な例ということで。。…。なんか、長々とあまり重要でないことを書いてしまってるような…
 
[No.77] 2006年08月22日(火) 9:37:22
220.209.237.91 [unknown]
    ■Re: 『高校までと大学の読み方の変化』
      田口(龍谷大学)
    ■「りん」さん。レ スポンスありがとうございました。「りん」さんの文章に触発されて、ぼくも似たような古い記憶がよみがえってきました。ただぼくの場合は、じぶんが出した 答えと教師や問題集がしめす「正解」とがズレることが多く、「なんでだろう?」と思いなやむ日々だったような気がします。

    ■「りん」さんがいうように、中高までの国語は「試験」と切っても切れない関係にあるのかもしれませんね。そして、「正解」は事前に決まっており、それを効率よく割りだす能力が要求される。これでは、「体温あがる!」読書行為は生れにくいでしょう。

    ■ ただ一箇所、「りん」さんと意見がちがうのは、以下の部分です。「りん」さんは、「ここにこういう接続詞があるから内容はこのように繋がる」とか、「この 指示代名詞はなにを指しているのか」とかいった「塾や学校で教わった読み方」にたいして、やや否定的な見方をしていますね。たしかにこうした地味な読み方 は、ふつうのリテラシーをもっている生徒には退屈なものです。

    ■しかし、ぼくらは意外と細部をすっ飛ばして読んでいるものです。そして、 先入観や臆測で理解したつもりになっていることが多いのではないでしょうか。いまのぼくは、テクストを細かく割って吟味することと、「体温あがる!」読書 行為とは一体のものと考えています。というか、それが一体になるように実践したいし、そのようにちゃんと他者にも説明していきたいと願っています。

    ■「説明責任」を果たしていない教師。――ご指摘、耳に痛かったです。教師には教師の言い分があるでしょうが、ぼくはこの企画がその罪滅ぼしと情報交換の場になればいいなと念じています(笑)。
     
    2006年08月23日(水) 12:34:45
    60.56.146.4 [unknown]


■3-1「教師」の役割について。
  田口(龍谷大学)  
■宮口さん、アイハラさん、野中さん、重松さんのやりとりを、すこし整理しておきたいと思います。いささか個人的な判断をふくみますので、客観的とはいいがたいかもしれません。

■ アイハラさんは、@「生徒の「読み」といわゆる「定説」とが大きくかけ離れ、断絶している」ようにみえると書いておられます。ここでいう「定説」とは、研 究の領域における支配的な学説をさしておられるようです。またアイハラさんは、A「直感的な感性」で読む高校生と、文学研究にかんする「知識」をもつ大学 生とでは、読み方にすこしズレがあるのではないかと指摘しておられます。

■これらの問題は、なかなか判断がむずかしいようです。まず@については、そもそも「定説」が何なのかは、それほど自明ではないのではないでしょうか。「蠅」にかんする「定説」の中身を再検証するのも、こんかいの企画の狙いのひとつと考えます。

■またAについても一般化はむずかしいのではないでしょうか。ぼくの個人的な経験では、年齢や学齢の違いより、各個人の「文化資本」の格差のほうが大きいような印象をもっています。大学生より踏みこんだ理解をする高校生はたくさんいるはずですから。

■ ただ、アイハラさんや宮口さんが問題にしておられるポイントは、「教師」の役割のことではないかと思います。もともと作品の読みは、かぎりなく個別的であ るはずです。似たような感想でも、こまかな言葉遣いやニュアンスは違うものです。それらを前にして、「教師」はなにを語ることができるのか。ヘタすると 「教師」は、個別的な読みを抑圧し、むりやりある「定説」に従わせるのではないか。そういった疑念があるのではないでしょうか。

■こうし た疑念は、生徒自身にもあると思います。とくに「教科書」がそういう権威性を備えているようにみえるからです。書き込みにもありましたが、「教科書」や 「教師」が提示する「定説」や「正解」に堅苦しさや抵抗感をいだく「学習者」は少なくないようです。では、「教科書」や「教師」の正当性は何なのでしょう か。

■ここからは議論百出だと思いますので、あまり踏み込みません。ただ「教科書」および「教師」は、たんなる権威であってはならないの ではないでしょうか。個人的には、「教科書」や「教師」は、みずからの存在理由や正当性を、「学習者」に説明する責任があると考えます。その説明責任は可 能かどうか? このあたりも「蠅」に即して議論できたらいいなと願っています。

 
[No.76] 2006年08月20日(日) 21:36:26
58.70.17.205 [unknown]
    ■Re: 3-1「教師」の役割について。
      宮口
    宮口と申します。

     「蠅」にかんする「定説」 の中身を再検証するのも、 こんかいの企画の狙いのひ とつと考えます。

    上記のような形で、田口さんが指摘する議論が繰り広げられること期待します。ただ、

     「教科書」や「教師」は、 みずからの存在理由や正当 性を、「学習者」に説明す る責任があると考えます。 その説明責任は可能かどう か? 

    という点については、それがゼロである、という所に出発点を置いた際に浮き上がってくることは何?といったことを、前もって整理できないかという思いで発言しているので、当日の議論ではあまり取り上げられない方がいい話題だと(個人的には)思っています。
     
    2006年08月20日(日) 21:30:32
    220.145.193.214 [unknown]
    ■感謝
      アイハラ
    まとめていただきありがとうございます。まとめていただきましたので、それ以上の補足はボクにはありません。

    >大学生より踏みこんだ理解をする高校生はたくさんいるはずですから

    もちろんそう思います。
    大 学生の「批評」が必ずしも高校生の「感想」に勝るわけではありませんから。主観的、直感的、偶然的な刹那的感想にこそ、真実が含まれることは大いにありま す。もちろん、それは「教師」「研究者」を対象としても同様。実は、その<同様>をどう乗り越えるのかもまた今回の企画の楽しみでもありま す。
     
    2006年08月21日(月) 0:49:08
    219.110.187.69 [unknown]
    ■「教科書」および「教師」の「説明責任」とは?
      田口(龍谷大学)
    ■あまりこだわると議論の風通しが悪くなってしまうのですが、ぼくが考える「教科書」や「教師」の「説明責任」とは、以下のようなベクトルをもちます。

    ■ そもそもある作品の「定説」や「正解」といったものはどのように形成されるのでしょうか。大ざっぱにいえば、それはある強固なパラダイムに準拠し、基本的 なリテラシーや論理的な整合性にもとづいて構築されるのではないでしょうか。(こうした厳格さがなければ、教科書や入試問題は怖くて作れないはずです。)

    ■ いうまでもありませんが、パラダイム(思考枠)とはたんなる虚構や幻想の域にはとどまりません。それは、ある認識論的布置に支えられ、おおくの人々に支持 され、ながい時間の堆積によって構造的に確立されてきたものです。ですからそれは簡単に脱構築できるものではないでしょう。

    ■とはいえ、あるパラダイムが絶対の恒久的な「真理」であるとは断言できません。なんらかのパラダイム・シフトが生じた瞬間、過去の「真理」が一転して、単なる無知や誤謬として廃棄されてしまう現象は、たびたび歴史に散見されます。

    ■ では教師は、「定説」や「正解」にどのように向きあえばよいのでしょうか。ぼくは個人的には、「定説」の呪縛のないところに「自由」な読みなど成立しない と考えています。それは、基本のできていない表現が空疎なのと一緒です。つまり「定説」は、やがて廃棄されるためにも、徹底的に吟味される必要があると考 えます。「教科書」や「教師」の役割のひとつは、そうした「定説」を示唆することではないでしょうか。むろん示唆のしかたにはいろんな方法があると思いま す。

    ■野中さんは、つぎのように述べておられました。――「私が「国語科」の授業でやろうと心がけていることは、「生徒ひとりひとりの個 別な読み」にゆさぶりをかけ、突き崩し、組みかえることです。そして出来れば、組みかえられた読みが最終的な読みではないということを、生徒たちが何らか の形で感じ取ってくれたらいいなとも思っています。そうなるように仕向けているつもりです。そのためには、授業をすることによって教師である私の読みもゆ さぶられ、突き崩され、組みかえられた方がいいのだと思います」(No53レス)

    ■たいへん美しい言葉だと思います。ただ、「生徒ひとり ひとりの個別な読み」をゆさぶり、突き崩し、組みかえる「力」はなんでしょうか。ぼくは、そのひとつに「教科書」が準拠する「定説」を想定したいと考えて います。ただそのためには、「定説」なるものがしっかり吟味されなくてはなりません。「教科書」や「教師」の「説明責任」は、そこに発生すると考えます。

     
    2006年08月21日(月) 16:16:36
    58.70.49.30 [unknown]
    ■「教師」ではなく「教科書」の役割について。
      宮口
     宮口と申します。

      田口さんの言葉を通して自分が何を気にしているのかが、少し明確になったような気がします。要するに「教師」という要素が限りなくゼロに近い状態で、「教 室」に君臨する「教科書」とは? という部分を、議論をする前にそれなりに(?)整理したいと思っていた(?)訳です。「教科書」と「教師」、という形で 並べられるとそこに違和感が生じます。私が思い浮かべていたのは、自らの意見を持つことなく「教科書」に従う「教師」でしかありませんでした。ですから個 々の力量を発揮する場として「教室」のことを捉えている方々の発言に対しては、襟を正して聞き入るしかありません。
     結局、最初に記した〈研究〉と〈教育〉の関わりがどうなっているのか、それを整理できないか、という話になります。ということで、再度のお願いですが、実際に教科書関連の仕事をなさった方の発言を望む次第です。
     
    2006年08月21日(月) 19:11:50
    220.145.193.214 [unknown]


■「蝿」感想です。
  りん(龍谷大学4年)  
同時代の文章でないということで見慣れない漢字や言葉がよく出てきますが、「蠅」は、短い話がさらに短く区切られているので、こういった文章を読み慣れていない人の集中力も持続しやすいと思います。私のように。
しかし「読みにくさ」があることで、飛ばし読みできず、きちんと読むにはどうしても読書スピードが落ちます。(そうでなくともこの作品は、必然的にそうな るように書かれているように思いますが。)そうなることで、話の細かい箇所を吟味し、話の中に入り込めたように感じました。この話は、話の展開を楽しむと いうより、この物語内を流れる空気を共有することを楽しむもののように私は感じたので、ちょっと読みにくいくらいが丁度よかったです。

  内容についてですが、おもしろかったです。読んでいて、なにやら感覚に直接訴えかけてくる作品でした。妙にしん、とした真夏の日の出来事。蝉の声すら聞こ えず、最後までただ淡々と時間が一定の速さで進んでいく。静けさの中、その場のみで発せられた音は耳の中で反響し消えていく。なんなんでしょうか、この感 じは。
 また、ラストでは、たった一匹の蠅がいるだけで、ひとつのありふれた悲劇になり得る話がこんなにも異なったものになるのか、と驚嘆してし まいました。この話を読んで「ひどい駆者だ」とか、「農婦の息子はどうなったんだろう」とかいう考えは出てきません。崖からみんな落ちて蠅が飛び立った時 点で、すべての登場人物の人生は等価となり、この話の「その後」へ向かう読者の想像力は完全に遮断されてしまいます。完全なる遮断。死。読者は物語内から 突然締め出されて、あとは蝿だけがその中で悠々と飛び回っている。「死」というものを考える上で、なかなか思いつけないような視点を与えてくれる良い作品 だと思いました。

しかし、なぜ蝿の目は大きいのでしょうか…。観察者だから…?
 
[No.75] 2006年08月18日(金) 22:29:09
220.209.229.166 [unknown]
    ■Re: 「蝿」感想です。
      田口(龍谷大学)
    ■「りん」さん。た いへん肌理(きめ)の細かい感想、ありがとうございました。「短い話がさらに短く区切られている」うえに、「見慣れない漢字や言葉」が多用されているの で、「読書スピード」を落とさざるをえず、その結果、「細かい箇所を吟味」することができたという指摘は、じつに新鮮でした。

    ■たしかにこの小説は、ふしぎな文法によって言語運用されているような気がします。この問題意識は、1-5「構成について」、および1-6「文体について」にリンクするかもしれません。

    ■そして、「りん」さんが読みとったという「妙にしん、とした真夏の日の出来事」という内容は、その文体や構成とダイレクトに結びついているような気がします。このあたりの秘密をさらに吟味してみたいと思います。

    ■「りん」さんは、高校までと大学に入ってからでは、文学作品の読み方が変化しましたか? よかったら教えてください。
     
    2006年08月19日(土) 16:40:26
    58.70.115.154 [unknown]


■「正しい」読み
  重松恵美  
お盆のせいか少し停滞しているようなので少々感想など。
研 究集会の案内を見ていましたら、石田仁志氏の発表要旨に、「人間と蠅、死と生、落下と飛翔。(略)運命の不条理や、人間存在への否定、虚無的な生命観、あ るいは生の解放感。」という一節を見つけました。こういうのを「正しい」読み、一般的な読みとして授業で提示すれば、学生たちは納得して安心して「蠅」を 読むのかなと思います。
レポートや感想文を集めた後、「○○について書いた人が何人、××について書いた人が何人いました」という風に学生に報告することがあります。その反応として、「私と同じテーマを選んだ人が大勢いて安心しました」という声が出てくるわけです。
一方、「あのテーマなら他の誰も書かないと思ったのに、同じことを考えた人がいたのは残念でした」という声も少数ですが存在します。
「正 しい」読み、一般的な読みから抜け出そうとする少数の学生にとって、「蠅」は興味ある(独創的な読みを産みやすい)作品ということになるのでしょうか?  しかし、そういう自由度の高い作品であると教員が指摘すると、大半の読者にとっては、わけのわからない居心地の悪い作品に逆戻りしてしまいそうです。結局 は教員の力量の問題なのでしょうけれども……。
 
[No.73] 2006年08月18日(金) 4:37:26
61.116.13.62 [unknown]


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