++  横光利一「蠅」についてのコメント  ++
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この掲示板は、第7回研究集会に呼応してつくられたものです。以下の趣旨に共感される方は、自由にコメントを書き込んでください。書き込まれたコメント類は、当日のディスカッションの参考にさせていただきます。
共通テーマは「教室のなかの横光利一」です。教科書や入試をふくむ教室/教育空間には、みえない諸力が働いているようです。だれもがいちどは通過する「教室」において、横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたかを議論してみたいと思います。
対 象とするのは、横光利一の「蠅」[1923]です。それ以外の作品についてもOKです。「教室」で横光の作品を読んだり教わったりしたことのある人、ある いは教える側にたったことのある人は、そのときなにを感じ考えたかを自由に書き込んでください。たとえば、「面白かった、面白くなかった」でも構いませ ん。理由があれば、なおさら結構です。
横光利一の文学は、現代の私たちになにを伝えるのでしょうか。教育現場のリアルな声をひろく募集しています。
〔注意事項 ※投稿する際の「color」選択について〕
(1)教室で教わったことのある人(学生、生徒さん)は「blue」。
(2)教室で教えたことのある人は「red」。
(3)教室とはかかわりなく読んでいる人は「green」。
(4)テーマから外れるコメントは「gray」。
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■第2回めの集約。すこし長いよ。
  田口(龍谷大学)  
■京都は五山の送り火が終わり、夏がうしろ姿をみせはじめたような気がします。研究集会まで、2週間あまり。そろそろ加速していきたいと思います。

■重松さん、大谷大学の学生のみなさん。ご協力ありがとうございました。いずれもフレッシュで柔軟な読みが展開されており、たいへん参考になりました。

■基本的には、やはりテーマにかんするコメントが多かったようですね。
※「死とは突然やって来る理不尽なもの」「あまりにも残酷で無情な作品」(No58「K」さん)
※「わがもの顔で生きている人間より、ひそやかに生きている蝿の方が生き残ったということで、命というものは大小関係なく、はかないものだなと思いました」(「No61「S」さん)
※「人間の感じる色々な物事(喜びや絶望など)も、視点を変えれば、どうということもない、ただ過ぎ去っていく時の流れの一つの出来事にすぎない、ということを表しているのではないだろうか」(No64「T」さん)
※「高校の時の記憶もうっすらとしか覚えていないのです(苦笑)が、「ハエ以外は皆、落ちて死んでしまって残酷な話だなぁ」と思ったことは覚えています」(No65「R」さん)
これらは、1-1「結末のカタストローフ」に強く反応した読みだと思います。
いっぽう、No.51「藤井」さん、No.52「加納」さんからは、作品全体をふまえて、「社会の指導者が欲望に負けると社会はたちまち崩壊し、どんなにドラマを抱えた民衆も容易くその犠牲になってしまう、という社会批判になっている」とのコメントをいただきました。
読み手がどこに力点をおくかで、かなり違った結論がでてくることがわかり、参考になります。

■1-2「蠅と人間の関係」に注目したものも多かったようです。
※「ハエの運命と人間の運命の逆転」(No59「M」さん)
※「ハエは自由……、人というのは「運命」から逃れられないのかと悲しくなりました」(No60「O」さん)
※「ハエは人間よりかしこいのだ。……ハエにとって人間は愚かに見えたのかもしれないし、見下したかもしれないと思った」(No67「Y」さん)
※「ハエは独特の存在感があって、したたかで不気味に感じた。……ハエは、いろんな事情をかかえている人間を、少しバカにしているようにも感じた」(No69「I」さん)
※「ハエは人間とは直接関わらない世界に生きている」(No70「D」さん)

■いっぽう少数ではありますが、以下のようなコメントが目にとまりました。
※「情景描写から、「夏」、特に「真夏」という季節感がとても感じられ、暑さなど夏の感じが伝わってきました。」(No62「A」さん)
※「横光の文体や言葉使いが独特で、緊張感が感じられる話でした」(No68「N」さん)
※「誰が蝿を乗客としているのかと言われれば、それは登場人物の誰でもなく、ただ神視点である、この地の文だけです。」(No63「J」さん)
これらは、ひろい意味で、1-6「文体」にかんするコメントと判断されます。
とくにNo63「J」さんが「神視点」(カメラアイ)を問題にしているのは興味をひきます。
これは、No49「さかな」さんが提出した2-1「語り手」の問題ともダイレクトに結びつく問題ですね。

■教室のなかの学習者が、この作品のどのあたりに注目しているかがリアルにわかる貴重なドキュメントだと思います。むろんこれで議論が終わるわけではありません。
「宮口」さん、「アイハラ」さん、「野中」さん、「重松」さんあたりからは、「教師」の役割をめぐる問題提起もありました。
また、高校と大学との差異についても言及がありましたし、現役高校生の「tsubasa」さんからは、「受験」という視座も提起されていました(No46)。

■どんな小さな疑問・感想・意見でも構いません。この際、「教室のなかの「蠅」」を徹底解剖してみたいと思います。書き込み、よろしくお願いします。


 
[No.72] 2006年08月17日(木) 12:18:24
58.70.98.205 [unknown]


■もう一つ補足…
  重松  
最後に。入力しているうちに思い出したことを書きとめておきます。
「沿 線の小駅は石のように黙殺された。」という有名なフレーズで、「物」が「人」と同列(同格)に扱われていた、それと同じように、小説「蝿」では「蝿(虫、 ちっぽけな存在)」が「人」と同列に扱われているのではないか、などということを教室で話したような記憶がかすかによみがえってきました。
「自由に読んでください」などと言いながら、ヒントを示すつもりで、ついつい方向付けをしてしまっているのですね。
それでは、私の書き込みはひとまずこのくらいにします。長々とすみません。最後になりましたが、大谷大学の学生諸君のご協力に深く感謝いたします。
 
[No.71] 2006年08月11日(金) 17:54:34
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その12
  D(大谷大学4年)  
ハエは人間とは直接 関わらない世界に生きている。ハエにとって興味があるのは、クモの巣に引っかかった体を休めることで、息子の危篤でもなく、追手でもなく、カバンのお金で もなく、そしてまんじゅうでもない。馬車に乗ったのも体を休めるためで、だから居眠りした馭者を起こすこともしなければ、崖に落ちた馬車からも飛んで逃げ るだけだった。
ハエが人間のことに関心がないのと同様に、農婦と馭者とのやり取りにもそのような無情な感じがしました。
 
[No.70] 2006年08月11日(金) 17:33:57
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その11
  I(大谷大学4年)  
読んでいて、不思議な感じがした。普段、私が読んでいる話とは全然ちがったので。
最後も、ハエ以外は全員死んでしまうし、後味が悪い。
ハエは独特の存在感があって、したたかで不気味に感じた。馬車にのっている人間は皆いろいろな事情があるみたいだったが、ハエはそんな事情は関係なくて、ただ疲れたから休んでいただけという単純な理由だ。
ハエは、いろんな事情をかかえている人間を、少しバカにしているようにも感じた。
 
[No.69] 2006年08月11日(金) 17:29:52
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その10
  N(大谷大学4年)  
おもしろかったです。
横光の文体や言葉使いが独特で、緊張感が感じられる話でした。短い文の中に、それぞれの乗客のストーリーも見え、それと対照的な馭者も文章の中でいい味を出していました。
ラストの、馬車が崖から墜落するシーンでは、その情景が目に浮かぶようでした。蝿だけが唯一の傍観者であり、乗客であったんだなあ、と思いました。
 
[No.68] 2006年08月11日(金) 17:26:13
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その9
  Y(大谷大学4年)  
ハエの目線から見た人間の様子の書き方は、とても面白いと思ったし、ハエは人間よりかしこいのだと思った。
乗客も馭者もそれぞれ自分勝手な事情で、たまたま同じ時間を過ごしているが、自分のことばかり気にしすぎて、馭者の居眠りに気づかない。しかしハエだけが気づく。人間の世界の落し穴のようなものを感じた。
ハエにとって人間は愚かに見えたのかもしれないし、見下したかもしれないと思った。
 
[No.67] 2006年08月11日(金) 17:23:31
219.127.117.130 [unknown]


■感想その8について、補足
  重松恵美  
途中ですが、補足説明します。
このクラスでは、テキストに『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫)を使用しました。(そのため、「蝿」をプリント配布しなければならなかったのです。)
「春は馬車に乗って」は授業では取り上げていませんが、学期末レポート(テキストから好きな作品を選んで論じる)に手ごろな作品として示唆したところ、圧倒的多数の受講生が「春馬車」を読んでレポートを書いた、という事情もあります。
「蝿」は記憶に残る作品、「春馬車」は人を惹きつける作品なのかなと思ったりします。
以上、蛇足ながら……。
 
[No.66] 2006年08月11日(金) 17:19:21
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その8
  R(大谷大学3年)  
高校の時に、横光利一の作品をしたなぁ…と思っていて、「たしか馬車か何かに乗っていて崖から落ちる話…」とは覚えていたので、題名的に「春は馬車に乗って」かな?と思っていました。でも、話が違うなぁ…と思っていたので、「ハエ」だとわかってスッキリしました。
高校の時の記憶もうっすらとしか覚えていないのです(苦笑)が、「ハエ以外は皆、落ちて死んでしまって残酷な話だなぁ」と思ったことは覚えています。だから少し印象に残る作品だと思います。
 
[No.65] 2006年08月11日(金) 16:45:44
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その7
  T(大谷大学3年)  
この話には、6人の人間と1匹のハエが登場する。6人の人間については多くは語られず、若者と娘が逃げている(?)理由などがクローズアップされることもない。それは、彼らが、あくまでも脇役で、代用のきく登場人物だからなのではないかと思った。
ハエが、「○○というハエ」でないのと同じように、人間は、ただの「人間」であり、それ以上細分する必要はないのであろう。ということは、この話が、ハエと人間の話だということである。
ラ ストシーンで、ハエは、悲劇(人間側から見れば)を無視して悠々と飛び去っていく、これは、人間の感じる色々な物事(喜びや絶望など)も、視点を変えれ ば、どうということもない、ただ過ぎ去っていく時の流れの一つの出来事にすぎない、ということを表しているのではないだろうか。
 
[No.64] 2006年08月11日(金) 16:41:39
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その6
  J(大谷大学3年)  
なんだか少しやるせない小説だと思いました。
蝿を乗客としている所に少し疑問を感じます。なぜなら、猫背の馭者も他の乗客達もましてや蝿自身も蝿を乗客だとは思っていないだろうからです。
この場合、誰が蝿を乗客としているのかと言われれば、それは登場人物の誰でもなく、ただ神視点である、この地の文だけです。そのことに少し違和感を感じました。
物語としては、様々に生きている人間が死んで、ただ蝿だけが飛んで行くということが、虚しい印象を与えていると思います。
ここまで書いた所で、先生がカメラアイのことについて説明してくれたので、なるほどと思いました。私は最初読んだ時から地の文は蝿視点というよりも神視点だと思っていました。
あと、最後「ただひとり」と蝿のことが書かれていて、蝿なのに「ひとり」とされていることが面白いと思いましたが、何を意味しているか、分かりません。
 
[No.63] 2006年08月11日(金) 16:35:53
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その5
  A(大谷大学3年)  
なかなか面白い話だと思いました。情景描写が巧みに描かれていて、作品の世界に自分がいるかのような感覚になりました。
最後の方で、蝿も乗客として描かれているところがユニークで面白いと思いました。
また、情景描写から、「夏」、特に「真夏」という季節感がとても感じられ、暑さなど夏の感じが伝わってきました。
カメラアイの技法が用いられていることに関しても、面白いと思いました。
 
[No.62] 2006年08月11日(金) 16:23:30
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その4
  S(大谷大学3年)  
「蝿」では最後には蝿以外の人間が全て死んでしまい、残酷な話だと思いました。しかし、わがもの顔で生きている人間より、ひそやかに生きている蝿の方が生き残ったということで、命というものは大小関係なく、はかないものだなと思いました。
ま た、蝿は蜘蛛の網から逃れ、生き続けることができたけれど、農婦の倅や乗客たちは死から逃れることができなかったということに運命の残酷さを感じました。 人間が死へと近づいていくシーンを蝿だけがながめているところがとても印象的でした。そして、私たちは人間中心の目線で生きているけれど、この世に存在す るもの全てにそれぞれの視野があるのだと感じ、人間の非力さを感じました。
 
[No.61] 2006年08月11日(金) 16:12:45
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その3
  O(大谷大学3年)  
それぞれの乗客のそれぞれの物語が絡み合っていて、読んでいて飽きずに進められた。
息子の危篤に焦る農婦と主婦のやりとりが、とてもいたたまれない気持ちになった。若者二人のかけおち、馬をせかす親子、みな急かされる気持ちがよく表われていて、まんじゅうもいいスパイスをきかせていると思う。
最後はやはり、ハエは自由……、人というのは「運命」から逃れられないのかと悲しくなりました。
 
[No.60] 2006年08月11日(金) 16:07:10
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その2
  M(大谷大学1年)  
最初、ハエはクモの巣にひっかかって、普通の流れでいくと、それでクモのエサとなり死んでしまう空虚な運命だったんだろうけど、ハエは生きのびた。
それで、最後のシーンで、馬車にのっていた人間が全員死んでしまい、馬にくっついていたハエだけが生きのびて、ハエの運命と人間の運命の逆転(?)っていう感じが、私はした。
 
[No.59] 2006年08月11日(金) 16:02:53
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想その1
  K(大谷大学1年)  
この作品は最後まで読んであまりスッキリしない作品だった。
なぜ、この6人は死ななければならなかったのか。それは偶然、馭者が居眠りして、馬が道を少しそれて、乗客が偶然馬車に乗っていたからである。誰も死ななければならない理由はなかった。
つまり死とは突然やって来る理不尽なものである。この作品を読んで「死」という存在を喉元につきつけられたような感じがした。
物語というには、あまりにも残酷で無情な作品だと思いました。
 
[No.58] 2006年08月11日(金) 15:58:32
219.127.117.130 [unknown]


■「蝿」感想 12人分……
  重松恵美(大学非常勤)  
京都の大谷大学にて、100名近い学生に「蝿」の感想を書いてもらいました。その中から絞りに絞って、12名分の感想を、この掲示板に書き込むことにします。
そ の前に、補足説明をしておいたほうが良いかと思います。正確に言うとこのクラスでは「蝿」を教えたわけではありません。「横光利一の西洋体験」をテーマ に、「ケシの中」と「厨房日記」を読み、岡本太郎や金子光晴に寄り道もしたようなクラスです。授業最終日に「蝿」の本文をプリント配布し、その場で短い感 想を書いてもらいました。
教員(私)から断片的に示唆したこととしては、「乗客6名」など登場人物の整理、いわゆる「カメラアイ」の技法、「蝿」 が乗客として数えられている箇所があること、饅頭に注目すると面白いのではないかということ、作品発表年、それくらいです。余計なことを言ってしまったか もしれませんが。
もし、そのときの受講生諸君が今この掲示板を見ているなら、新たな感想を今度は自ら書き込んでいただきたいと願っています。
前置きが長くなりました。続けて、学生の感想文を書き込みしていきます。
 
[No.57] 2006年08月11日(金) 15:48:35
219.127.117.130 [unknown]


■発表要旨をアップしました。
  田口(龍谷大学)  
■運営委員会で構成するメーリングリストで、「発表要旨」公開の可否について話しあいました。その結果、GOサインが出ましたので、さっそく発表要旨をアップします。「活動予定」のサイトをご確認ください。

■まだ教室のなかの声をお持ちの方がいらっしゃると仄聞します。また、すでに書き込みをされた方も、なんどでもOKです。感想・質問・意見などなんでも構いませんので、書き込みよろしくお願いします。近いうちに、2回めの集約もしてみたいと考えています。
 
[No.56] 2006年08月11日(金) 13:00:50
218.251.19.216 [unknown]


■発表要旨について。
  田口(龍谷大学)  
■9月2日の第7回 研究集会まで、1ヶ月を切りました。昨日、「横光利一文学会」の会員のみなさんには、ご案内を郵送いたしました。田中実さんのご講演の要旨、山ア義光さ ん、石田仁志さん、佐藤泉さんの発表要旨が掲載されています。いずれも刺激的でクリアカットな内容となっています。明日にも、お手許にとどくはずですの で、楽しみにしておいてください。

■会員以外の方には残念ですが、現在、このホームページ上に発表要旨をアップするかどうかを検討中で す。当然のことですが、「横光利一文学会」は、会員のみなさんの「会費」によって運営されています。とすれば、こうした情報(利益)は、まず会員のみなさ んに還元されるべきものと考えます。

■とはいえ、こうした情報が会員以外のみなさんにも届き、なかには興味をもった方が会員になってくだされば、「横光利一文学会」全体にとってもメリットになるはずです。いわば未来の会員のみなさんへの情報発信も大事ではないかと考えます。

■運営委員会のレベルで合意が形成されれば、アップも不可能ではありません。「掲示板」でのディスカッションがより盛んになるきっかけになればいいなと願っています。
 
[No.55] 2006年08月06日(日) 19:43:45
58.70.48.117 [unknown]


■授業で。
  アイハラ  
これって何色使ってもいいんでしょうか?
いきなり変な質問ですみません。
前述登場の野中さんに教わってやって参りました。

某都立高校2年のクラスで、「蠅」を扱いました。
授業ではなく、あまった時間に扱ったというのが正しいかと…。
生徒たちには、登場人物のキャラクター設定が魅力的だったようです。
また乗り合い馬車という、乗り物にも着目し、なぜ列車のある時代に、わざわざ<乗り合い馬車>なのか、という問いかけもありました。
先行論文で言い尽くされたかんのある、視点の問題ですが、生徒からは自発的に出ては来なかったので、特に触れずに終わったように記憶しています。語り手の問題も然り。
コミュニケーションのあり方や、会話の問題などからずいぶんと身近な問題へと展開していきました。

思うのですが、
※だれもがいちどは通過する「教室」において、横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたかを議論してみたいと思います。
という前提の問題提起ですが、
宮口さんが「教室」の問題を指摘されておりましたが、僕はむしろその後半にやや疑問がありまして、
「どのように読まれ、扱われてきたか」ということは、考え違いをしてしまうと、教師が「どのように読ませ、扱わせてきたか」ということになってしまい、それは本来的な目的ではなくなってしまうのではないでしょうか?それもまた含まれるのでしょうか?
 
[No.53] 2006年08月02日(水) 1:47:41
220.98.158.110 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      宮口
    アイハラ様へ

    宮口と申します。
    お話の通り、読む側に重点を置く今回の主旨からすれば、私が取り上げている話題は(前にも記しましたが)余分なものでしょう。
    た だ、教室における「力」を問題にする以上、全く無関係とは言えないのではないでしょうか。アイハラさんは、「考え違い」という表現を用いていますが、「ど のように読まれ、扱われてきたか」ということは、「どのように読ませ、扱わせてきたか」ということと切り離すことが出来ないのではないか、という考えから の発言です。個人的には「含まれる」と思いますが、今回のテーマに即しているとは言えないのは自覚しています。
     
    2006年08月02日(水) 9:42:51
    220.145.187.198 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      田口(龍谷大学)
    ■アイハラさん、書き込みありがとうございました。ひとことだけレスポンスさせていただきます。

    >「どのように読まれ、扱われてきたか」ということは、考え違いをしてしまうと、教師が「どのように読ませ、扱わせてきたか」ということになってしまい、それは本来的な目的ではなくなってしまうのではないでしょうか?それもまた含まれるのでしょうか?

    ■ こんかいの企画では、「教室」のなかで教師が果たしてきた、あるいは果たすべき役割についても考えてみたいと思っています。これまでの書き込みからも分か りますように、高校生や大学生は、じつに柔軟で多様な読みを展開してくれています。これらの声は、「教室」のなかで、どんな扱いを受けるのでしょうか?

    ■個人的な意見になってしまいますが、ぼくは、生徒が「善」、教師が「悪」などと、逆もふくめて、単純化するつもりはありません。別にいえば、生徒の「自由」な読みを教師がコントロールすべきではないと考えているわけでもありません。

    ■あえて踏みこんでいえば、生徒ひとりひとりの個別な読みと、教師が準拠する定説にちかい読みとが、どんなふうに葛藤し、「合意」を形成するのかというところに興味があります。その際、「合意」形成にいたるプロセスは、できるだけディスクローズすべきだとも。

    ■大事な問題を提起してもらったような気がします。よかったらアイハラさんのお考えも、ご教示ください。
     
    2006年08月02日(水) 9:56:29
    218.251.12.103 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      アイハラ
    宮口様へ

    まず、今回の書き込みは、宮口さんのコメントに対しての非難ではないので、もし誤解がありましたらお詫びいたします。
    な ぜ「読まれ」と「読ませ」を切り離したかと申せば、「蠅」研究において重視されてきた視点や語り手の問題。これらの問題は、高校生や中学生が自ら発見する には難しすぎる、と思われるのです。もちろん偶発的に、これに近似する読みを提示する生徒もいないこともありませんが、それを既存の論と重ね合わせること は、生徒の直感や感性を平板化してしまうことにもなりかねません。それを承知で、「読ませようとする」のか、生徒が【気づく】範囲での「読まれる」内容を 重視するのか、そこが今回の問題提起としてどう考えるのか疑問に思ったのです。
     
    2006年08月03日(木) 2:41:54
    60.39.7.153 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      アイハラ
    田口様へ

    高校生と大学生。ましてや文学部の大学生となるとさまざまな文学的な(研究方法的な)知識を手にしており、高校生の直感的な感性とは少しズレを感じます。
    そのズレを、疑問に感じ、書き込みをしてしまいました。

    「「合意」形成にいたるプロセス」を明らかにしようとする試みは非常に興味深く感じられます。
    それ以前に、いったいどれだけの高校教員が横光の作品を扱うのかといったことも興味深いです。

    もう数年前のことなので、自分の授業風景は忘れてしまいました。

    当日の研究集会楽しみにしています。教室と文学とのかかわりは、とても刺激的な問題ですね。
     
    2006年08月03日(木) 2:59:10
    60.39.7.153 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      宮口
    アイハラ様へ

    宮口と申します。

    な ぜ「読まれ」と「読ませ」を切り離したかと申せば、「蠅」研究において重視されてきた視点や語り手の問題。これらの問題は、高校生や中学生が自ら発見する には難しすぎる、と思われるのです。もちろん偶発的に、これに近似する読みを提示する生徒もいないこともありませんが、それを既存の論と重ね合わせること は、生徒の直感や感性を平板化してしまうことにもなりかねません。それを承知で、「読ませようとする」のか、生徒が【気づく】範囲での「読まれる」内容を 重視するのか、そこが今回の問題提起としてどう考えるのか疑問に思ったのです。

    というアイハラさんの疑問に対して言えば、「読ませる」と いう部分を無視して欲しくない、という声をあげること以外は何も考えていませんでした。田口さんのメッセージに対する応答を見る限り、研究会当日に何等か の刺激を我々(というのは誰?)に与えてくださることでしょう。
    ただ、時間の関係上取り上げられる可能性が低いことである点を考えた場合、言い方は悪いのですがあなたを利用させていただくことにしましたのでごめんなさい。
    研究会当日には触れられないかもしれませんが、教師(教室)のもつ「力」についての議論は、この掲示板である程度の合意が出来ないかな、という希望を込めてバカな文章をここに出します。ご笑納下さい。
     
    2006年08月03日(木) 19:38:42
    220.145.187.198 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      野中
    アイハラさん、どうもありがとうございます。
    アイハラさんとはブログを通じて知り合ったわけですが、
    こういう場所で意見交換ができるというのも楽しいものだと思います。
    私が感じたことを以下に記します。
    長くなりますが、ご容赦を…。

    そもそも「横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたか」という表現は、
    大学に足場を置く横光研究者の側から、
    高校の国語科教育の現場を見たときに出てきた言葉なんだと思います。
    「教育現場」や「教室」ということばが指し示しているのも、
    大学ではなく第一義的には高校なのでしょう。
    少なくとも私はそう感じました。

    ただし「横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたか」という問いは、
    高校の国語教師の視点から大学の文学教育の現場を見て発する問いにもなり得ます。
    たとえば、高校教師としての私から大学教師としての田口さんに、
    「(大学の教室で)横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたか」
    という問いを投げかけることもできるわけです。
    宮口さんの疑問はこういうところから発していたわけですよね。
    HOME 
    2006年08月04日(金) 9:55:46
    219.179.250.14 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      野中
    (承前)
    という確認をした上で、
    上記の問題とは異なる論点として議論されている、
    「読ませる」問題について記します。

    教師という役割をにないながら国語科の授業を教室で行うということは、
    「読ませる」というところに足場を定めること他ならないのだと私は思ってます。
    少なくとも教師としての私は、
    そういう自覚のもとに「国語科」の授業をしています。
    そして私が「国語科」の授業でやろうと心がけていることは、
    「生徒ひとりひとりの個別な読み」にゆさぶりをかけ、突き崩し、組みかえることです。
    そして出来れば、組みかえられた読みが最終的な読みではないということを、
    生徒たちが何らかの形で感じ取ってくれたらいいなとも思っています。
    そうなるように仕向けているつもりです。
    そのためには、授業をすることによって教師である私の読みもゆさぶられ、
    突き崩され、組みかえられた方がいいのだと思います。
    いままで私が「蝿」を国語科の授業で取り上げたことがなかったのは、
    たぶんこのあたりに理由があったんじゃないかという気がしてきました。

    ところで、非常勤をしている大学での話です。
    昨年度まで「近現代文学講読」という講義を担当していたんですが、
    今年から講義名が「現代文読解」になりました。
    担当している者の実感としては、
    中高一貫校での「国語科」の授業との違いがどこにあるのか、
    よくわからなくなってきました。
    HOME 
    2006年08月04日(金) 10:00:55
    219.179.250.14 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      アイハラ
    宮口さまへ


    あなたを利用させていただくことにしましたのでごめんなさい。


    とのこと。わかりました。どんどんと利用してくださいませ…。
    もちろん「読まれる」「読ませる」は表裏一体な問題です。もしかしたら「表裏」だけでなく、もっと違う側面を追加した六角形ぐらいのその一面なのかもしれません。
    国 語教材として、いわゆるテーマ読み的な読みやすい教材というものがあるかと思います。個人的には、「蠅」はそうではない作品だと思っています。以前、田口 さんが「葛藤」という言葉を使われていましたが、まさにそうであるかと…。しかし、それはあくまでも両者のバランスが均衡である場合のみに起こる現象で あって、正直、これはボク個人の力不足ももちろんあるのでしょうが、その葛藤を生み出すバランスを「蠅」においては生み出すに至りませんでした。
    そういう反省を踏まえつつ発言をしております。
     
    2006年08月05日(土) 9:43:08
    210.141.105.105 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      アイハラ
    野中さんへ

    第一部の書き込みはもちろん承知しております。


    教師という役割をにないながら国語科の授業を教室で行うということは、「読ませる」というところに足場を定めること他ならないのだと私は思ってます。


    も ちろん、それはボクもそう思いながら、稚拙な日々を送っております。その後の展開ももちろんそのとおりだと思うのですが、「蠅」を具体例としてあげたと き、では、何を「読ませ」、どういう「読み」が生徒側から提示されるのを待つのか(この姿勢が教員として間違っていると言われればそこまでなのです が…)、それを考えたとき、ボクの実感としては生徒の「読み」といわゆる「定説」とが大きくかけ離れ、断絶しているように思えたのです。あくまで実感なの で根拠はありませんが。
     
    2006年08月05日(土) 9:50:39
    210.141.105.105 [unknown]
    ■Re: 授業で。
      宮口
    アイハラ様 野中様

    宮口と申します。
    お二人の授業に関する姿勢をうかがいますと、とりあえずその点における自らの立場を明らかにしないといけないと思いますので、それを記します。
    先 ず、こういうことを考えているバカは教師を辞めろ、と言われるのでしょうが、対話が成り立つ場、としての教室は空想するしかないのでないか、というのが基 本的な立場です。(もちろん、そのような認識の有無は別にして)何が可能なのか、というお二方の議論はきわめて重要だとは思います。ただ、(ここで一応確 認したいのですが、『蠅』の読みがどういう形をとっているかが主たる内容であろう今回の企画の中で、「教室」が参加者にどう捉えられているのか、という議 論の場では取り上げられにくいのではないか、と思われる話題を整理する、というのがあれこれ書きつづる理由ですので)、単純化してしまうと、聞いたことを いかに確実に再現するか、という形での授業・試験を行う場合にそこで語られることは何?という点を明確に出来ればと思っているのです。

     
    2006年08月06日(日) 13:07:05
    220.145.187.198 [unknown]


■(no subject)
  加納大希(東洋大学3年)  
「蠅」において馬車の乗客は皆、何かしらの欲を持っていると思いました。
農婦は息子に会いたいという欲。若者と娘は逃げたいとう欲。母親と息子は目の前の馬や梨。田舎紳士は自らの持つ八百円。
そして、その乗客たちの運命を握るのが馬車の発車時刻を知る御者。その御者も饅頭という欲を持っている。

馬車を社会とすると、乗客の運命を握る御者は社会の指導者。乗客は指導者に従う人々とされると考えました。
社会の指導者である御者が、饅頭という自らの欲を欲し、満たした為、居眠りをして馬車は崖の下に墜落してしてしまった。社会の指導者が自らの欲に負けてしまった為、社会そのものが崩壊してしまったととらえられる。
しかし、社会に縛られていない、傍観者である蠅は社会の崩壊に巻き込まれることなく、悠々と飛んでいく。

蠅は社会に縛られていないものとして考えられますが、蠅が登場する場面では、はじめ蜘蛛の巣にひっかかっています。そのことを考えると、蠅もはじめは何か縛られるものがあったのではないかと思いました。

横光利一が「蠅」で何を伝えようとしたのかを考えると、作中に登場する全ての人やものが、別の意味を表しているのではないかと思います。

「蠅」は、作中の人物や物に様々なとらえかたができるという点から、「教室」という場では、教師にとって教えやすい教材なのではないでしょうか。

 
[No.52] 2006年08月02日(水) 1:13:38
221.117.190.238 [unknown]
    ■Re: (no subject)
      石田仁志
    藤井君、加納君、書込みありがとう。
    乗合馬車を「社会」、乗客を「一般大衆」、馭者を「指導者」の比喩として考えるというのは、判ります。
    横光の「頭ならびに腹」でも同じような比喩的な構造が描かれていると思います。

    私 自身は、横光という「作者」がそうした作品構造の先に「何か」を主張しようとした、たとえば「だから指導者を妄信してはいけない」とか、「欲望に囚われて はいけない」とか、「自由でなければならない」とか、そうしたことが言いたかったのかどうかは、今の私たちが作品に向き合うときにたいした問題ではないと 思います。
     それ以上に、私は「束縛と自由(解放)」という対比的な価値規範がこの作品構造を支えているということこそが、重要なのだと思っています。

    途中の考察を抜きに言えば、そうした価値規範は「教室」という「場」そのものにも働いている「権力」的な「力」なのではないでしょうか。
     
    2006年08月03日(木) 17:20:16
    133.79.234.88 [unknown]


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