++  横光利一「蠅」についてのコメント  ++
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この掲示板は、第7回研究集会に呼応してつくられたものです。以下の趣旨に共感される方は、自由にコメントを書き込んでください。書き込まれたコメント類は、当日のディスカッションの参考にさせていただきます。
共通テーマは「教室のなかの横光利一」です。教科書や入試をふくむ教室/教育空間には、みえない諸力が働いているようです。だれもがいちどは通過する「教室」において、横光の作品(とくに「蠅」)はどのように読まれ、扱われてきたかを議論してみたいと思います。
対 象とするのは、横光利一の「蠅」[1923]です。それ以外の作品についてもOKです。「教室」で横光の作品を読んだり教わったりしたことのある人、ある いは教える側にたったことのある人は、そのときなにを感じ考えたかを自由に書き込んでください。たとえば、「面白かった、面白くなかった」でも構いませ ん。理由があれば、なおさら結構です。
横光利一の文学は、現代の私たちになにを伝えるのでしょうか。教育現場のリアルな声をひろく募集しています。
〔注意事項 ※投稿する際の「color」選択について〕
(1)教室で教わったことのある人(学生、生徒さん)は「blue」。
(2)教室で教えたことのある人は「red」。
(3)教室とはかかわりなく読んでいる人は「green」。
(4)テーマから外れるコメントは「gray」。
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■追伸。掲示板って。
  アイハラ  
書き終わった後に思ったことですが、
この現代の「ネット掲示板」ですが、
考えようによっては、「蠅」みたいなもんですね。

われわれ自体が、もうすでに、登場人物というか…。

マウスの音が種蓮華の音のように迫ってきます。
(逃げるだけじゃ…。)


※変な書き込みすみません。
 
[No.54] 2006年08月02日(水) 1:59:05
220.98.158.110 [unknown]


■蠅の感想
  藤井憲司(東洋大学3年  
馬車というのは一種の社会であり、
それに乗っている乗客は社会に生きる民衆。
馬車(社会)の手綱を握る馭者は社会の指導者、すなわち政府。

馬車(社会)の中にはそれぞれ様々なドラマを持った乗客(民衆)が生きているわけですが、馭者(政府)が饅頭を食べて居眠りしてしまった結果、馬車は落下し馭者もろとも乗客は全員死亡してしまう。

これはつまり、社会の指導者が欲望に負けると社会はたちまち崩壊し、どんなにドラマを抱えた民衆も容易くその犠牲になってしまう、という社会批判になっているのである。

・・・というのが読んだ後に同じグループの友達とサイゼリアでミラノ風ドリアを食べながら話し合ってみて感じた事です。傍観者である蠅は社会という枠組みにとらわれない自由な世捨て人?という事でしょうか。

でも横光がアナーキストであったか、となるとまた別の問題ですよね。個人的に新感覚派のように新しいジャンルや技法を開拓していくような人間には既存社会への批判や反骨精神を少なからず抱えているものだと思うのですが・・・
 
[No.51] 2006年08月01日(火) 0:48:16
210.194.80.182 [unknown]


■感想
  宮口  
宮口と申します。
授業という形で『蠅』と関わったことはありません。
今回、ざっと目を通しただけですので、見落としが多々あるであろうと思いますが、一つ気になる点があるのでお尋ねします。
それは「教室」のとらえ方です。
基本的に高等学校の「教室」が念頭におかれるであろうことは分かります。ですが、それと大学の講義室等は全く関係のない別のものなのでしょうか。
残念ながら(?幸いにして?)自身の経験はないのですが、教科書の指導用資料を作製している人々、及び、そこで記述されている事柄は、大学・学会の場で議論されていることを何等かの形で取り込んでいます。(この点はその手の教科書を使用した経験から知っています)
すると、数々の感想を記す学生さんたちの知的形成(?)に関わっていたかもしれない部分を作り上げたものが、今回の討論を通して、教科書により「教室」へと再び返っていく、ということも可能性としては十分に考えられます。
テーマからははずれますが(そして一度に何もかもが出来るわけではないことは重々承知していますが)、以上のような感想を抱きました。
出来れば、指導書を作った人の発言を期待します。
 
[No.50] 2006年07月29日(土) 14:04:38
220.145.187.198 [unknown]
    ■Re: 感想
      田口(龍谷大学)
    ■宮口さん、書き込みありがとうございます。おっしゃるように、今回のテーマは、大学などの高等教育をふくめて考えるほうがより生産的だと思います。

    ■というのも、教科書の編集には必ず大学の教員が参加しているようですし、おのずと学界における研究動向も反映されているようにみえるからです。

    ■ちなみに、副教材として使われる国語便覧や文学史の記述もなにがしかの影響力をもつのではないでしょうか。

    ■ 以下に、管見にはいった例をあげます。「ドラマティックな筋立てと一刻一刻の変化を追う映画的手法を試みた新しい感覚の作品。さまざまな事情を抱えた人々 が馬車に乗り合わせるが、馬車は崖から墜落。それを見ていた蠅の目を通して、人間の運命の不安定さが浮かび上がる」(『常用国語便覧』、浜島書店、 2004.10)

    ■「横光は『文芸時代』創刊の前年、『蝿』とともに『日輪』という実験作を発表しています。右は『蝿』の一節ですが、横 光は、人間を自分ではどうともできない宿命的な、あるいは運命共同体的な実に不安定な存在としてとらえ、たった一匹の「眼の大きい蝿」(この眼は表現者横 光の眼でもあります)によって相対化されてしまう集団を描いています」(『詳解日本文学史』、桐原書店、2004.2、三訂版27刷)

    ■こうした記述には、学界における研究動向が、陰に陽に影を落としているようにみえます。ただ、こうした教材を作成する側にも、いろんな制約や苦労があるはずです。できれば教材作成に携わった当事者の生の声もきかせてもらいたいと願っています。

     
    2006年08月01日(火) 7:31:10
    58.70.89.196 [unknown]


■蝿を読んでだらだと考える
  さかな(龍谷大学・3回)  
 田口先生からこの場所を教えていただいた、とある学生です。話の足しにでもなればと、ちょっと口出ししてみます。

  掲示板を読んでいて思うのは、やはり「テーマ」に集中した意見が多いということです。それはおそらく、「蝿」が「メタファ」としてなんらかの「テーマ」を 象徴した小説に読めるからなのでしょう。他のコメントにありましたが、「蝿」は教材としてはなかなかに人気だそうで、その理由はやはり、象徴を解釈する、 小説をメタ言語化する、とどのつまり読みとり訓練としての有用さを認められた結果かな、と。

 最初、私は、この文章を敢えて「文体実験」として捉えてみたいなあなどと思っていました。――が、あまりうまくいっていないので、何でも書き込んでいいという管理者さんのお言葉に甘えて、ただつらつらと書いてみようと思います。意表も批評もヘタックレもありませんが。

 語り手の位置について

 よく「神の視点」などとよばれる、全ての登場人物の内面を知り尽くした存在と、あるいは類型化可能かもしれませんが、しかし、この語り手、登場人物の中で蝿の内面だけは知りえていません。

  たとえば、田舎紳士のことなら、昨夜の銭湯での奇行や、そのことを「忘れていた」ことなど、「神の視点」らしく把握しています。けれど、蝿のこととなる と、蝿の行動以外のことを描写する場面はほとんどありません。唯一蝿の内面について語ろうとしている場所は、十章の『しかし、その乗客の中で、その馭者の 居眠りを知っていた者は、わずかにただ蝿一匹であるらしかった。』だけではないかなと。しかも、語り手が推量をするのは、どうやらここだけのようです(研 究者的勤勉さのない私なので、見落としがあったら指摘いただけるとうれしいです)。

 とすると、語り手の位置は、かなり人間よりというこ とになるのではないか。不条理さや因果応報を読みとることができるのは、この語りの位置が大きく関係しているのではないか。というのは、もし、本当に語り 手自身が(ひいては作者自身が?)本当に不条理、因果応報、あるいは生死を語るならば、もっと初期の芥川的な寓話的要素を盛り込み、蝿の内面さえ支配すれ ばよいのではないか。「羊のふた」さんが、前に書き込んでいたように、もっと他に書きようがあるはずなのではないか。

 この小説がテーマに還元しやすいと思ってしまうのは、我々が、蝿と人間の対比に大きく触れてしまえるからなのだろう。しかしこの小説自体は、蝿についてなんの判決も下していない。
  思うに、蝿は、ただ最後まで、ただの蝿なのだろうと。もし蝿がなんらかのメタファとして(俯瞰の視点として? 人間への皮肉として?)、存在しているのな ら、いっそ、どこかの小説の猫のように、人に対して皮肉を吐けばいい。あるいは最後の結びを「ただ独り、皮肉げに見下ろして、悠々と〜」とでもすればい い。
 
 そんなわけで、蝿は、語り手にも触れられない他者として、読者の視点を集める。蝿は、たしかに見ているが、ただ見ている。登場人 物と交わらない。農婦の前を蝿が飛び回ったという描写もないし、頭についた蝿を払う馭者の描写もない。出来事のレベルだけでなく、内面のレベルにおいて も、やはり蝿は他に干渉しない。蝿が大きな目で見ていることを知っているのは、蝿を見ている我々(語り手と読者)だけである。誰も蝿の視線を知らない。

  もし乗客の誰かが蝿を見つけていたのなら、きっと結末の場面は、人間と蝿を対比した不条理や因果応報として、小説の中で処理されていたのだろう。たとえ ば、落ちていく子供の目に一匹の蝿が悠々と飛んでいく姿が映った、とかなんとか。そうすれば、途端にこの小説は不条理や因果応報として扱える。でも、小説 内では誰もこの不条理なり因果応報なりを知らない。知っているのは我々。我々(読者と語り手)が、蝿を知っているからこそ、「蝿」に意味を見出そうとす る。

 もし、この小説に読みとるべきテーマがあるとしても、それは作品そのものには由来しないんじゃないか。少しかっこうをつけたものいいをすると、本当に、不条理や因果応報として崖から落ちたのは、そういう風に読んだ読者のほうじゃなかったのかな、と。

 それでも、あえてこの小説の「中」にテーマが存在すると主張することは可能だろう。それは、不条理なり因果応報なりを読んだ読者のこの反応こそ「作者の意図」なのだ、とすることで。
 けれど、作者の意図が本当に作品に直結するものなのかと、私なんかは疑問に思う。作者が意図しても意図しなくても、テキストそのものは変わらない。変わるのは、作者個人に対する評価だけ。
 そんなわけで、私としては「作者の意図」なるものは保留しておきたい。

  勝手な評価をすると、この小説は、おそろしく出来事なのだと、私は思う。伝えたいことよりも、どうしようもなく、ただ存在する出来事に、読者を放り込むこ とによって、各人の出来事に対する反応(因果応報だったり、不条理だったり、生死だったり)を引き出す。主題の読み取り作業用にはこれほど不適格なテキス トも珍しいが、文学鑑賞訓練用にこれほど適したテキストも、また珍しい。そういうものではないかな、と。

 ……と、ここまで書いといてな んなんですが、なにかが書かれている以上、やはり「意味」はあるのでしょうね。たとえば、蝿がくもの巣から生還することが、この小説の中で何かを「意味」 することは、自然と(という言葉もやっかいなものですが)想像することができます。ただ、そうして「意味」が存在すると仮定したとき、その所在はどこにあ るのでしょうか。作者の意図、テクストの中、読者の解釈、あるいは教室の中……。
 
 もし文章というものが、ただなにかのメタファでしか ないとしたら、それは言葉遊び以外の何ものでもないのかもしれません。「解釈」が、たとえば「登場人物のこの行動は、これこれを意味する」だけのもなら ば、小説は記号の集まりでしかない。もうちっとなにか可能性がないかと考えてはみるのですが、しかし、そこまで届くほど私は手が長くないようで。

 同じことの繰り返しばかりして、無駄に長くなってしまいました。この辺が私の限界のようなので、今回はこれくらいにしておきます。
 しかしまぁ、正直なところ、こういう場所での発言は、プロの前で素人の恥をさらすような感があって、思ったより抵抗感を覚えちゃいますね。
 
[No.49] 2006年07月28日(金) 22:35:43
219.118.93.5 [unknown]
    ■Re: 蝿を読んでだらだと考える
      田口(龍谷大学)
    ■おもしろかったです!
    重要な問題をふくみますので、さらに議論してみたいと思います。

    ■ひとつは、2-1「語り手の問題」ですね。
    語り手は、「蠅」に焦点化することはあっても、「蠅」の内面には踏みこまない。
    その結果、「蠅」と登場人物が直接交渉することはないが、そこに読者は隠れたメッセージを読み込んでしまうということですね。
    作者と読者のあいだに「語り手」をおくことで、テクストはさらに複雑な表情をみせはじめるようです。
    さらにご意見をお寄せください。

    ■ふたつめは、上ともリンクしますが、この作品がもっている2-2「解釈を誘発する装置」についてです。
    No.48「野中」さんが仰るように、「蠅」は、「教師が教えやすいと思ってしまう教材」なのでしょう。
    その際、解釈A.B.C……を競いあうのか、それとも解釈A.B.C……が生じる仕掛けとか構造を議論するかでは、力点のおきかたが微妙に違います。
    「さかな」さんのコメントは、どれが「正解」かはあまり問題にしていないようです。
    こういう方向の可能性についても、さらに議論してみたいと思います。

     
    2006年07月29日(土) 8:50:49
    58.70.19.246 [unknown]


■つたない文章ですが
  tsubasa(大阪の某私立高校2年)  
tetuから進められたので来ました。

この話で印象深かったのが、最後の所で人間は崖から落ち、蝿は青空へ飛び立ったことです。特に蝿が悠々と青空の中を飛んでいったという所が物語の締めという感じで印象に残りました。
また、この部分で老若男女が死ぬことで命に差がないと感じました。

普通、蝿は物語にでてくることはほとんどなく、人間にとって忌み嫌われるものです。
その蝿の主観?で話が進み、最後の方で馬と蝿が擬人化されているのが、人間の話ではなく、蝿(人間以外?)の話だと感じました。

自分は「蝿」のような作品は高校の授業には合わないと思います。この作品は人によって様々な見方があり、これといった見方がないので授業には不向きだと思われます。
 
[No.46] 2006年07月20日(木) 20:43:21
221.90.84.35 [unknown]
    ■Re: つたない文章ですが
      島村
    tsubasaさん、メッセージありがとうございました。
    「この作品は人によって様々な見方があり、これといった見方がないので授業には不向きだと思われます。」とのこと、とても興味深く思いました。教材ということになると、現在高校生の立場からすれば、万人共通の見方ができる作品が望ましいということですね。
    「蝿」を読んでみて、この作家のほかの作品も読んでみたいと思いましたか。機会があれば、また、メッセージをください。
    現役高校生の意見はとても貴重です。
     
    2006年07月21日(金) 9:07:42
    60.40.63.184 [unknown]
    ■Re: つたない文章ですが
      tsubasa(大阪の某私立高校2年)
    国語の授業ではなく、総合などの授業でこのような様々な見方を考えさせる、といったような場合でしたらは良いと思われます。

    今読んでいる本が読み終わったら読んでみたいと思います。
    他の作品もこの「蠅」のように考えさせられる作品なんでしょうか?
     
    2006年07月23日(日) 0:51:51
    221.90.84.35 [unknown]
    ■Re: つたない文章ですが
      島村
    tsubasaさん、返信ありがとうございます。
    tsubasaさんは国語という教科に対して、「様々な見方を考えさせる」というような要素はない、もしくは不要と考えますか?
    また「蝿」はこれまでの国語の授業や自主的な読書で出合った小説とは異質に感じますか。もし、そう感じるならどのあたりにでしょうか?もし、機会があれば教えてください。
    それから、もし横光の作品を読むなら、新潮や岩波の文庫にもあるので、そのあたりが手ごろかと思います。もし読んでみたら、また、感想を寄せてみてください。もちろん、こちらも機会があればで結構です。
     
    2006年07月23日(日) 23:33:34
    221.191.207.88 [unknown]
    ■Re: つたない文章ですが
      tsubasa(大阪の某私立高校2年)
    国語という教科に対 して、「様々な見方を考えさせる」というような要素はない、もしくは不要と考えますか? とありますが、これは国語という教科をどうとらえるかでによると 思います。受験のためだけなら不要と思います。ただ、本来?の国語の授業なら、このような考えさせる作品が必要だと思います。
    自分は高2なので、やはり授業では受験で必要する文章を扱って欲しいと思います。

    異質に感じましたが、どこがどうというわけではなく全体的に雰囲気が違うという感じでした。

    宿題が意外と多いので8月半ばごろになりそうですが
    何冊か読んでみるつもりです。
     
    2006年07月24日(月) 18:53:20
    221.90.84.35 [unknown]


■学校の先生から教えてもらって来ました。
  tetu(大阪の某私立高校2年)  
学校の先生から進められたので「蝿」を読んで来ました。

私はこの話について
最初、蝿は蜘蛛の巣につかまって下に落ちるけれども、その後馬の背中へ戻ることができる。
だが、人間=馭者は眠ってしまって崖から上がることもできずに死んでしまった(?)。
この二つの対比が何らかのメッセージに繋がるんじゃないかなと考えました。
最後に蝿が人間になる(呼び方というか数え方が「一疋」から「ひとり」に変わっている)。のが上の考えに結び付くヒントになったし、すごく面白いと感じました。

話の流れとしては淡々と話が進んでいく感じですが、
何かを考えさせるような感じはしました。
そういう点でも面白いと思います。

また私は学校の先生と親しくしていただいているのでこの文章にめぐり合うことができましたが、授業でも「蝿」のような「?」と思って考える作品を取り上げて欲しいなと思います。
HOME 
[No.45] 2006年07月20日(木) 18:57:31
219.66.118.150 [unknown]
    ■Re: 学校の先生から教えてもらって来ました。
      田口(龍谷大学)
    「tetu」さん、ありがとうございました。
    記念すべき高校生第1号ですね。
    細かいところまで読み込んでおられるので、びっくりしました。
    しっかり参考にさせていただきます。
     
    2006年07月20日(木) 20:26:37
    218.251.13.106 [unknown]
    ■Re: 学校の先生から教えてもらって来ました。
      島村
    teru(←笑)さんメッセージありがとうございました。蝿の数詞表現の変化に着眼しているあたり、とくに鋭い(!)と思いました。もし余裕があれば「何かを考えさせるような感じ」など、具体的に補足してもらえるといいかなと思います。
     
    2006年07月21日(金) 8:50:10
    60.40.63.184 [unknown]
    ■Re: 学校の先生から教えてもらって来ました。
      tetu(大阪の某私立高校2年)
    何かを考えさせるような感じ
    というのは、具体的に何と分かるわけではないのですが、
    物語のストーリーがあるだけではなく、この話が何かのたとえになっている。と感じたということです。
    (PS 何か勘違いされてるようですが私のHNはtetuです。
    HPには本名も載っていますので確認されたらどうでしょう?)
    HOME 
    2006年07月24日(月) 14:32:19
    61.116.119.221 [unknown]


■鶴見大学の学生の感想
  野中  
高校生と大学生を教えています。野中潤です。

「蝿」を通常の国語の授業で取り上げたことはありませんが,先日大学の講義で学生に読んでもらいました。教えたというより,読ませただけなんですが,投稿する際の「color」はいちおう赤を選択しておきます。

設 置されてすぐに偶然この掲示板の存在を知りました。興味深い取り組みに私も参加すべく,担当している鶴見大学文学部の国語科教育法の受講生26名に急遽 「蝿」を読んでもらいました。教育実習に行くことを前提にした教職課程の講義です。7月10日(月)のことでした。その日はねじめ正一の詩の朗読という講 義だったのですが,最後の十数分を使い,後期の模擬授業の素材にするという大義名分のもとに,ざっと黙読してもらいました。そのうえで,初読の感想をごく 簡単に記してもらいました。

こちらからは何のサジェスチョンもしなかったんですが,なかなか面白い感想が集まりました。でも,内容的にはこれまでに投稿されたものとだいたい重なりますので,私が特に気になったものに限り,その一部を紹介します。

▽登場人物が集まり,「さあ物語がこれから面白くなるぞ!」という所でストンと落とし,そこを淡々と蝿の視点で終わらしているところに面白さがある。(K君)
→もしかするとK君は,無意識的にRPG的な期待を抱いていたのかもしれないなと思って面白かったです。パーティーを組んで馬車で出発!というところで終わってしまうというのは,RPG的にはあり得ないのでしょうから。

▽関わりのない蝿は関わりがない故に刻むように心に残る。「人の身勝手で死ぬ虫の命があるように,神の身勝手で死ぬ人の命があっても良い」という言葉を思い出す。蝿はどこかの国では神の使いだそうだし。(A君)
→スカラベは太陽神の象徴らしいですけど,蝿も神の使いなのだとしたら,ちょっと面白いと思いました。


▽この作品で蝿を使っているのは,死体にたかる由縁なのかなと感じました。とにかく少し残酷な物と蝿の飛びさる爽やかさが一緒の場面にあり,気持ち悪かったです。(Sさん)
→ 偶然にも私の本の装幀をしてくれた美大出身の方が,横光利一の「蝿」について同じようなことを言っていました。最後の場面で空高く舞い上がった蝿は,やが て谷底の死体に舞い降り,卵を産み,死体からウジがわき,眼の大きな蝿の子孫となって飛び立っていく…。Sさんのように読むと,こんな後日談を想像するこ とができるわけです。
HOME 
[No.48] 2006年07月24日(月) 8:14:26
219.179.250.14 [unknown]
    ■Re: 鶴見大学の学生の感想
      野中
    私が持っている阿武泉さん作成のデータベースによると,戦後の高校教科書で「蝿」を採録しているものは26冊あります。これは「旅愁」の17冊をしのぎ横光利一の小説としてはトップの採録数です。
    ちなみに夏目漱石の場合,「こころ」はなんと145冊,「三四郎」が55冊,「それから」が30冊,「夢十夜」が19冊です。
    「蝿」は採録数において「それから」よりは少ないけれど,「夢十夜」よりは多いということになります。
    個々の教科書の採択率とか販売数とか,採択されたとしても実際に教材としてどのくらいの頻度で取り上げられたのかというあたりまではわかりませんが,採録数を見る限り,なかなかの人気教材だと言えそうです。

    おそらく,教師が教えやすいと思ってしまう教材なんだろうと思います。
    HOME 
    2006年07月24日(月) 8:20:38
    219.179.250.14 [unknown]


■(no subject)
  羊のふた  
「目の大きな」という表現は、単なる伏線である。
ど この伏線かというと、二箇所ある。一つは御者の居眠り中。この箇所の表現は「その居眠りは、馬車の上から、かの目の大きい蠅が〜を眺め、〜を仰ぎ、〜を見 下ろして」とある。もう一つは終盤で馬車が崖から落ちる時。この箇所の表現は「瞬間、蠅は飛び上がった。と、〜が目に付いた」とある。この二箇所の表現 は、どちらも蠅が高所から何かを見下ろす、という状況である。前者は自然で後者は(主に)人間を。

要するに、あえて「目の大きな」と付け 加える事で、後半の二箇所においての蠅の俯瞰性、またその構図を暗示したいのである。・・・いや、少し違う。一つだけ「仰ぐ」という見上げる意味の言語が ある。とすると、自然に対してだけは俯仰性か・・・まあ、どちらにせよ、伏線である事には違いない。序盤で「目」すなわち「見る事」に読者を注目させた蠅 が、作品内ではこの二箇所でしか、自身の目を使っていない。

また、ただ一つだけ怪しい箇所があり、それは乗客の中で唯一蠅のみが御者の居 眠りを知っていた状況のことであるが、この時の蠅は明らかに自身の目による情報である筈なのに、一言も「目」に触れてはいない。これは筆者の意図である。 蠅にとって人間は対等に見るものではなく、あくまで見下すものであると。何とも痛快な文章技法である。

ところで、蠅は自然に対しては柔軟 に、人間に対しては下位に見ているわけであるが、ここで論をもう一歩進める。そもそも蠅が人間を俯瞰する事など通常はありえない、と我々人間は普段から考 えている。何故なら、万物の霊長を自称する我々人間こそが、普段から矮小な蠅を俯瞰しているからである。現に、この作品の序盤でも、蠅の一大事に無関係で 無関心な人間が描かれている。それが普通なのである。

だが、そんな人間と蠅が、馬車に相乗って共に乗客となるという一時的な立場の融合を 経て、逆転する。何と、蠅が人間よりも上位の立場、換言すれば、俯瞰する側にまわるのである。いやはや、この対比が入れ代わるという技巧(前回のものも含 む)こそが『蠅』の一番の妙に違いない。
 
[No.47] 2006年07月21日(金) 17:24:21
220.106.107.30 [unknown]


■1回めの集約です。ちょっと長いよ。
  田口(龍谷大学)  
■たくさんの書き込 み、ありがとうございます。ここらで、1回めの集約をしてみたいと思います。もちろん、これで議論が終わるわけではありません。また、「正解」を求めるつ もりも毛頭ありません。論点をすこし整理して、さらに多くのコメントをいただきたいと願っています。議論のために、いくつかの項目を設定しました。抜け落 ちているものもあるでしょうが、今回は、最大公約数に注目してみました。(むろん、これらの論点にとらわれる必要はありません。意表をつくようなコメント をお待ちしています。)

1-1 結末のカタストローフについて。
1-2 蠅と人間の関係について。
1-3 人間の欲深さについて。
1-4 「目の大きな蠅」について。
1-5 構成について。
1-6 文体について。
1-7 教材として是非について。


■1-1結末のカタストローフについて。
※「偶然に左右される人間の不条理」(No.4「タカシ」さん)
※「不可抗力の前に人は無力であり、空虚である」(No.26「4年生」さん)
※「なにかとてつもなく大きく偉大なものに一蹴される感じ」(No.32「幸子」さん)
※「人生一寸先は闇だ」(No.36「元澤」さん)

こ うした見方は、他の多くのコメントにも潜在していると思われます。共通しているのは、予測をこえた非日常的な事件/出来事に対する想像力だと思われます。 これは、2006年を生きる私たちの生活感覚や気分とも関係しているかもしれません。ただそれをどう評価するかは、個人によって大きく分かれます。

※「ものすごく不快」(No.4「タカシ」さん)
※「人が死ぬことを軽く扱っているように感じた」(No.7「えいじ」さん)
※「数々のドラマが馭者のいねむりで、一瞬にして消え飛んでしまうはかなさ、突きはなされた感があり、おもしろかった」(No.8「マサシ」さん)
※「ラストで全てをご破算にしてしまい、あくまで読み手を突き放してしまうところに面白さがあると思う」(No.18「りょう」さん)

こうした対立する感受性は、なにに起因するのでしょうか。また、両者のあいだに、対話や合意形成は成立するのでしょうか。さらに議論していきたいと思います。


■1-2蠅と人間の関係について。
※「人間と蠅の非関連性が面白かった」(No.10「タカハシ」さん)
※「人間にとっての意味の世界の事情が、意味づけを持たない蠅にとって、どれほど無意味かという逆説」(No.6「しゅんすけ」さん)
※「蠅と人々は同じ時間・空間の中にいたにも拘らず、そこにはなんの意味の融合も発生も起こらず、それこそが人々の死を一層虚しいものにしている」(No.15「渉」さん)
※「「行きたい(生きたい)」と思う者が生き延びられず、何も思慮しない者(蠅)が生き延びるという、アイロニカルな運命観」(No.25「中村」さん)

こ うした見方は、蠅と人間がおなじ空間にいながら、たがいになんの接点ももたないという関係性に興味を寄せているようです。また現実における人間(強者)と 蠅(弱者)の関係が、この小説では逆転していることへの言及も多くみられました。こうした受け取り方はなにを物語っているのでしょうか。さらに吟味してみ たいと思います。


■1-3人間の欲深さについて。
※「蠅は生きていくだけで精一杯で一所懸命だけど、人はただ生きているだけでは満足できず、いろんなものを持とうとして重くなる。だから落ちたのか」(No.20「めい」さん)
※「自分中心に考え馬車をせきたてる農婦、かけおちのような感じで後ろめたい男女、いたずら好きな息子と注意もしない母、金の亡者の田舎紳士だとしたら、死ぬのは運命だったかもしれない」(No.21「さとし」さん)
※「無情な蝿だけど本当に周りに対して冷たく無情なのは、自分の欲とか感情に支配されている人間のほうだ」(No.37「実果子」さん)
※「人間は、生きることに価値をもとめて、勝手にしがらみを増やして勝手に困って、そのしがらみが達成されなかったら、また文句を言って、そういう人間の姿を、他の生き物と対比させることによって表したかったのではないかと思います」(No.43「ゆえ」さん)

こうした見方は、1-1の「不条理」説と微妙にすれ違っているようにもみえます。もしかすると、この作品に因果応報的なメッセージを読みとっているのかもしれません。こうした受け取り方は、なにを物語っているのでしょうか。さらに吟味してみたいと思います。


■1-4「目の大きな蠅」について。
※「事実を事実として認識する存在」で、「意味を求める人間の大きな頭」と対比されている。(No.6「しゅんすけ」くん)
※「小説の中の蠅は人の運命を冷めた目で見ている横光自身だったのではないか」(No.17「まり」さん)
※「目が大きい=すべてを見透している? もしくは、すべてを見ている?」(No.32「幸子」さん)
※「この物語における蠅の役割は、ナレーターであると思いました」(No.35「有希」さん)
※「私はこの小説の著者は蝿なんだと直感で思いました。だから目が大きいんじゃないかな」(No.37「実果子」さん)

これらのコメントは、蠅と作者・横光とを重ねる方向にむかっているようにみえます。先行研究のなかにも、こうした意見がありました。こうした受け取り方は、なにを物語っているでしょうか。さらに吟味したいと思います。


■1-5構成について。
※「短編小説ならではのストーリーの緩急」(No.10「タカハシヒ」くん)
※「途中までは冷淡なほど淡々と書かれていたのに、最後は劇的な感じがした。」(No.11「みつお」くん)
※「明瞭なパーツを積み上げていって最後の一つの(それもまた明瞭な)パーツを積んで全てが完成した途端、全体について予想はつくがはっきりとしたことはわからなくなる」(No.19「こうすけ」さん)
※「『蠅』の章立ては、作品全体を紙芝居的に読ませる作戦か」(No.29「瑞枝」さん)
※「物語に対する期待」が「唐突」に終わって「オチがあるようでない」(No.31「藤井」さん)
※「途中まではとても面白かったです。ただ、最後のシーンは、あまりにあっさりしていて「あれ?」という気持ちになりました」(No.39「のぞみ」さん)

こ うした見方は、作品の構成や仕組みのほうからテーマにアプローチしようとしているようです。「馭者と乗客一人でもかまわないはずなのに、あえて数人の乗客 とその設定を考えたのには、なにかしらの意図がある」(No.36「元澤」さん)という疑問もふくめて、さらに議論してみたいところです。


■1-6文体について。
※「とてもゆるやかに流れているのに、読むのが大変な文でした。感情移入がなかなかしにくいです」(No.40「みく」さん)

テー マにかんする議論にくらべ、文体や表現にかんする言及は、いまのところたいへん少ないようにみえます。なぜでしょうか? 教科書には、「視覚的表現・聴覚 的表現の効果」や「比喩」の効果について考えるよう指示が出されています。こうした指示の是非についても議論してみたいと思います。


■1-7教材として是非について。
※「どうして最後こういう結末にしてしまうのか……とほんの少し嫌気がさしてしまいました。」(No.9「はるか」さん)
※「教科書にするには、あまり内容がなさすぎるし、すこし退屈になるかなと思いました。」(No.42「なお」さん)
※「私は「蠅」が授業で出てきたら、かなりイヤだったと思います。わけわかんなくなると思います。……私は正直導いてもらわないと全然読めないです」(No.40「みく」さん)
※「わたしはこのテクストが高校というパブリックな場で出てきたら、少しうれしいなとかんじますが、【蠅】というテクストは正解はこうだ!という読解をもってこられるとおもしろみがまったくうせてしまうと思う」(No.43「ゆえ」さん)

作 品そのものは面白いという意見は多いのですが、教材としてみた場合は、やや否定的なコメントが目立つようです。そもそも私たち(生徒、学生、教師)は、 「教材」にどんな小説を期待しているのでしょうか? また逆に、教科書編集者たちはどんな意図をもって「教材」を選択しているのでしょうか? さらに 「蠅」は教材としてどこまで活用できるのでしょうか? 疑問は尽きません。もっともっと議論を重ねていきたいと思います。ご協力お願いいたします。
 
[No.44] 2006年07月20日(木) 11:49:04
60.56.145.246 [unknown]


■【蠅】について
  ゆえ(龍谷・文・1回)  
おくればせながら
コメントさせていただきます。
ぼんやりとした雰囲気のなかで
人々は必死にそれぞれの事情を生きながら
最後にそれはあっさりとぶちこわれてしまう
わたしはこのテクストが高校というパブリックな場で出てきたら
少しうれしいなとかんじますが
【蠅】というテクストは
正解はこうだ!という
読解をもってこられると
おもしろみがまったくうせてしまうと思うので
教科書には向かないのじゃないかと思います。
最初、なんとなく【羅生門】に共通した無情さもかんじて
ならば【蠅】は載せなくていいんじゃないかとも思いました。
以前田口先生が授業で
横光利一の【神馬】のテクストを
もってきたことがありましたが
【蠅】と【神馬】は似ているな、と思いました。
生きることに意味を求めすぎて勝手にしがらみを増やして縛られている人間と
ごちゃごちゃと不要なしがらみをもっていない他の生き物
【蠅】と【神馬】にはこのふたつが対比されてるのかなと思います。
人間は
生きることに価値をもとめて
勝手にしがらみを増やして勝手に困って
そのしがらみが達成されなかったら
また文句を言って
そういう人間の姿を、他の生き物と対比させることによって表したかったのではないかと思います。
あと、【蠅】の文章のなかに
「だが、もし知り得ることのできるものがあったとすれば、それはまんじゅう屋のかまどの中で、ようやく膨れ始めたまんじゅうであった。」
という文がありますが
これはけっきょく、誰が悪いわけでもないんだ、ということを表しているのかしらと思います。
人間はそういう欲深さがあるけれど
横光はそれをただ提示しただけであって
とがめているのではないんだなという気がしました。
ただ無情なだけでなく、言及していない部分にすこし
やさしさをかんじました。
人間がしがらみをもつのは勝手だけど
それについて文句をいうのはお門違いなのだ
という気がしました。
よくわからなかったけど
わたしはこの話は好きです。


コメントを送信直前に
まちがって2回も消してしまったので
かなりうろおぼえになりました。
 
[No.43] 2006年07月19日(水) 17:11:28
125.172.152.99 [unknown]


■うち的には
  なお(龍谷・経済・1年)  
話の内容はあんまりなかった気がするケド
蠅を中心にしてるとこは面白いと思いました。
蠅って、人からみたら汚い感じやし、
見下してる? 感じやけど、
最後のところの1文「今や完全に……悠々と青空の中を飛んでいった」ってとこで、
人は死んでいるのに、蠅は生きているっていう
いつもと逆の立場になってて
そこが面白いと思いました。
ケド教科書にするには、
あまり内容がなさすぎるし、
すこし退屈になるかなと思いました。
 
[No.42] 2006年07月18日(火) 6:37:50
58.70.88.20 [unknown]


■個人的に
  ひとし(龍谷・文学部・3回生)  
この作品は、蠅から見た宿場での風景や人間模様が描かれているんだな、と思いました。あと、馭者の言っていた「桂馬と来たな」というセリフが、馬が崖から落ちて乗客もろとも死んでしまう、という結末を暗示させているように感じました。
自分はこの作品は面白いとは思いましたよ。
 
[No.41] 2006年07月18日(火) 1:25:38
124.96.35.31 [unknown]


■だめ感想。
  みく(龍谷・文学部・1年)  
とてもゆるやかに流れているのに、読むのが大変な文でした。
感情移入がなかなかしにくいです。
私は「蠅」が授業で出てきたら、かなりイヤだったと思います。
わけわかんなくなると思います。

つかめない。
落ちてこない。
「人生なんてこんなもん」とつきつけられている感じがします。
その感じは好きなんですが……。
みんな自分の意見いえてすごいなぁ。
私は正直導いてもらわないと全然読めないです。




 
[No.40] 2006年07月15日(土) 21:43:14
59.190.79.238 [unknown]
    ■Re: だめ感想。
      田口(龍谷大学)
    ■「みく」さん、ありがとうございました。参考になりました。「読むのが大変」とありましたが、その理由に興味があります。

    ■読みにくさにも、いろんなレベルがありますよね。
    たとえば、文章そのものの読みにくさなのか、
    それともテーマにかんする分かりにくさなのか。
    もうすこし細かく割って吟味してくださると助かります。

    ■ちなみに高橋幸平さんの調査によれば、
    「蠅」の<漢字率>(総文字数のうち漢字数の占める割合)は、33.6%だそうです。
    (ただし初出によります。教科書の場合、かなり平仮名に変換されているはずです。)
    近現代作家100人の平均は約32.6%、
    横光の作品の平均は約28.3%だそうです。
    やはり「蠅」は漢字の割合が比較的高そうです。
    原因は、このあたりにもあるのでしょうか。

    ■高橋さん。よかったら補足してください。

     
    2006年07月15日(土) 22:02:37
    59.190.79.238 [unknown]
    ■Re: だめ感想。
      高橋幸平(京都大学大学院)
     はじめまして。田口先生のコメントを受けて発言いたします。

      ある文章を〈読みにくい〉(または〈読みやすい〉)と感じる場合、その原因は大きく分けて2つあると思います。一つは@文章(発信者)、もう一つはA読者 (受信者)です。Aのような個人的要因があるため、ある文章の〈読みやすさ〉・〈読みにくさ〉を一般的に規定することは難しいと考えられます。

     しかし、〈読みにくさ〉に@やAがどのくらい影響しているかは考えることができるだろうと思います。

      まず、多くの読者が〈読みにくい〉と感じる文章(〈読みにくさ〉の原因が主に@である文章)に共通する文体的特徴をできるかぎり多く抽出します。次にそれ らの特徴が、対象とする文章aにどのくらい見られるかを分析します。文章aにそれらの特徴があまり見られない場合、文章aの〈読みにくさ〉の原因の多くは Aが占めていると考えられます。逆に、文章aにもそれらの特徴が多く見られる場合、文章aの〈読みにくさ〉の原因の多くは@が占めていると考えられます。

      では、多くの読者が〈読みにくい〉と感じる文章に共通するその文体的特徴とはどんなものでしょうか。詳しい分析をしていませんので直感的なことしか言えま せんが、田口先生の仰る「漢字率」の他にも、「平均文長」や「平均句長」、また語彙の種類などが含まれるかもしれません。

     ちなみに「蠅」の場合、「平均文長」は21.7文字(近現代作家100人の平均は約48文字…安本美典氏のデータによる)、「平均句長」は12.5文字です。
     
    2006年07月17日(月) 11:52:19
    219.106.111.214 [unknown]


■蠅について
  のぞみ(龍大・二回生)  
途中まではとても面白かったです。
ただ、最後のシーンは、あまりにあっさりしていて「あれ?」という気持ちになりました。
それまで細かく描写されていた乗客達の様子が、崖の上からはもう出てきません。
(最後の叫び、のような一文はありましたが)
あるはずのものを見損なったような、そしてそれは馬車と一緒に切り離されてしまったような、そんな風に感じました。

蠅は蜘蛛の巣から落ち、馬車は崖から落ちていたのが、この展開を暗示しているのかな?と気になります。
 
[No.39] 2006年07月13日(木) 23:45:59
58.188.75.239 [unknown]


■蠅について
  ひこうき。(龍大・文学部二回生)  
蠅を読んで第一に感じたのは、「やるせいないなあ」という想いでした。
人の死というものが、これだけあっさりと、一種冗談のように描かれるということに軽いショックを受けました。
でも、そう思う反面で、「これが人生ってもんなのかもなあ」とも思いました。
病 気などならともかく、こういった突然の事故死というのは、予見できないことがほとんどだと思います。そういう意味では、馬車が落ちたっていうのは、御者が 居眠りしていたということを含めても事故なのだと思います。御者は決して運転を誤ったのではなく、寝入っていたのだから、ある意味では巻き込まれたといえ なくもないかな、と。
人間の乗客が全員落ちたなかで、ただ蠅だけが助かった。ぼくは、これが蠅と人間の違いから起こったことではないように思えます。
乗 客は全員「人間」としてカウントされていることからも、きっと蠅と人間は存在として等価だったんじゃないかと。むしろ、蠅を擬人的に見るのではなく、人間 を蠅として捉えました。乗客も御者も全員蠅で、飛べなかったヤツが落ちてしまったと。冒頭で蠅が落ちているのも、そういう文脈なんだと思います。蠅は、一 度落ちているのです。
そう考えると、人間も蠅も、別にどこも変わらない。たかが蠅と言うのなら、たかが人間じゃないか、ということも言える。だからこの小説のタイトルは「蠅」なのかもしれないと思いました。
……長くなった上に、支離滅裂でスイマセン。以上が稚拙ですが、ぼくの蠅に対する感想と見解です。
 
[No.38] 2006年07月13日(木) 12:20:04
172.16.30.41 [unknown]


■「蝿」を読んで
  実果子(龍大・1回生)  
有希さんの意見にちょっと似てます。
私はこの小説の著者は蝿なんだと直感で思いました。だから目が大きいんじゃないかな。話の流れのトントンとした感じは人間特有の感情というものが入り混じってないからかな。
何かでもこの小説を読んで、ムナシイ、、、というか無情な蝿に対してあまりにも人間の感情が顕に剥き出しにされているように感じたんです。その差を最後の死で強調している・・・??
無情な蝿だけど本当に周りに対して冷たく無情なのは、自分の欲とか感情に支配されている人間のほうだ、と横光利一は言いたかったんちゃうかなって私は思いました。
説明下手くそでスイマセン↓↓
 
[No.37] 2006年07月13日(木) 2:14:46
221.188.248.155 [unknown]


■「蠅」を読んでの感想。
  元澤勇気(東洋大学・4年)  
「蠅」を読んでの第 一印象は、本作品の結末から、人生一寸先は闇だという事と、ごく短い話であるのに、登場人物が随分と多いなという事でした。そして、巻末の解説を読み、改 めて作品を読み直してみると、確かに映画等のカメラワークを感じさせられました。その上で、私が疑問に感じたのは、登場人物が多いのも、カメラワークのよ うな手法も、作り手が意図的にそうしたもので、そうであるならば、そこにはどのような意図があったのだろうかという疑問でした。特に登場人物に関しては、 例えば馭者と乗客一人でもかまわないはずなのに、あえて数人の乗客とその設定を考えたのには、なにかしらの意図があるように思えました。
 MAIL
[No.36] 2006年07月12日(水) 18:20:43
220.211.8.60 [unknown]


■「蠅」について。
  有希(龍谷・文学部・1年)  
この物語における蠅の役割は、ナレーターであると思いました。
ただそれだけであって、馬とも人間とも切り離された存在として浮びあがっている感じがします。

最初に死にかけて、最後は悠然と飛んでいくところも、
馬・人間の運命と逆になっていて、違いを際だたせていると思いました。

私はこの物語が好きです。好みです。
ブツンと途切れる鮮烈なラストがいいなと思います。
完全に私の趣味ですけど(笑)。
 
[No.35] 2006年07月12日(水) 13:49:35
58.70.97.212 [unknown]


■わたしの「蠅」。
  千賀子(龍谷・文学部・1年)  
「蠅」は、マザーグースみたいだ。
うだるような暑さの虚空に、
おのおのの人生、幸も不幸もがいっしょくたに転がり落ちる。(……地獄の熱さ?)

この「落ちる」は、
冒頭で蠅がクモの糸から「落ちた」のと呼応するようにみえる。

運命の「糸」は、意志もへったくれもない饅頭に、
それを待つ自分の欲に忠実な馭者に、
握られるようにみえる。
しかし「運命」に、
たがいに見ようとも知ろうともしない(できない)「意図」が絡みあうさまは、
リアルそのものだ。

水平に走りつづける不安か、垂直の破局か……
蠅ははりめぐらされた「糸」より落ちて生を保ち、
人は道より落ちて生を失った。

蠅に意志がなくても、私たちが蠅の目をかりて、意味をみる。(それだけかな?)
 
[No.34] 2006年07月12日(水) 8:59:25
218.251.18.39 [unknown]


■「蠅」を読んで
  知子(龍谷・経済学部・1年)  
最後の事故は、読者にとっては全員知ってる人だから悲しかったです。
蠅は人間と同じくらいの描写がされてたけど、蠅が助かっても何を感じれば良いんでしょうか。
私たちが蠅を殺すときのように、横光もパチンと簡単に登場人物を殺してくれて。
ほんとに最後あっけなくて、後味が悪いです。横光利一の作品は、私にとってやっぱり難しいなと思いました。
 
[No.33] 2006年07月12日(水) 0:43:13
58.188.75.173 [unknown]


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